20171228(木)

壮絶な留守番

壮絶な留守番

母方の祖父は鶴治という。
幼少の私と弟はよくこの鶴治に預けられた。
母の生家は米農家であり、繁忙期には母も駆り出され、その農作業の間、私達幼い姉弟は祖父、鶴治と留守番させられたのだ。
鶴治が私達は大嫌いだった。三體牛鞭外部リンク
大嫌いというよりは恐ろしかったのだと思う。
いつも薄汚い丹前を着ており、ヨチヨチ歩きしかできない。
鶴治は既に働き手としては戦力外だったのだ。
コミニュケーションは殆んどとれない。
鶴治はたまにウホホとムンクの叫びみたいな顔で笑いはするが、喋れなかった。
おそらく少し呆けてたのだろうが、当時は忙しくてみなが見事な放置だった。
ヘビースモーカーの鶴治は今思えば肺気腫だったのではないかと思う。
その証拠に5分おきに痰を吐く。
腹の底から絞り出すように、粘着性のある液体を口から出しては四角く畳んだ新聞紙に吐くのだ。
5分おきにだ。
恐ろしかった。
鶴治の一日の仕事は痰を吐く事と、新聞紙でできた痰壺の制作であった。
その環境に私と弟は耐えなければならなかった。苦痛で仕方なかったが嫌だとは言わせない母の厳しい背中。
鶴治に面倒を見てもらうというよりは、
私達が鶴治の痰が詰まらないように見張っていたと言っていい。
ある日弟はついに行動を起こした。
当時3才くらいだったと思う。
留守番は嫌だと言って、田植えに行く母に泣いてすがりついたのである。
母は邪険にその幼い手を払ったのを私は悲しい気持ちで見ていた。
弟は次に母の足にしがみついて「一緒に行く!」といってその手を放さなかった。
母はようやく観念して弟を連れて行くことにした。
私は羨ましくて仕方なかったが、「私も」とはなぜか言えず、複雑な感情を持ちながら、それを心にしまいこむ不器用な子供だったのだ。
鶴治の部屋と痰と私。。
そうなった時は本当に辛かった。
ついていった弟は邪魔にならないように、
田圃の畦に5時間もおとなしく座っていたらしい。
これは後々武勇伝として今もなお語り継がれている。
それほど鶴治が嫌だった証しでもある。
昔の親ってすごいと思う。
後ろ髪というものが潔いほどない。
私には絶対にできない。紅蜘蛛外部リンク
弟とはあまり仲が良くないが、これを共感できる唯一の人間であるから貴重である。
切ない思い出は時々予期せず私の脳にフラッシュバックする。







 コメント(0件)コメント欄はユーザー登録者のみに公開されます 





 カウンター
2017-05-02から
4,141hit
今日:4


戻る