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2016226(金) 13:28

世界の多くの国々学んだ日本の政策!(車)

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日本車は右ハンドルで左側通行ですが、世界の多くの国々は左ハンドルで右側通行です。
わたしは旅行が好きなので世界のいろいろな国を訪れましたが振り返ってみると、右ハンドルの国もいくつかありました。

振り返ってみると、「オーストラリア」、「香港」と「マカオ」、「シンガポール」、「インドネシア」、「インド」、「南アフリカ」、「ボツワナ」、「ジンバブエ」が日本と同じで左側通行でした。


これらの国の歴史を紐解いてみると、イギリスと深い関係があることに気がつきます。




右ハンドルの理由は明治の近代化にあった


イギリスが右ハンドルで左側通行なのは有名な話ですね。

また、上に挙げた国々がイギリスと関係が深かったことを考えれば、日本車が右ハンドルの理由もイギリスに関係しているのではないかと推測できます。

明治政府は、黒船開国後にどっと押し寄せた欧米の科学技術に圧倒されました。

富国強兵策として、欧米の技術を積極的に取り入れる方針を打ち出し、大規模な使節団を22カ国に派遣しました。

その結果、一つの国の技術にかたよることなく、各国の優れた点を分離して取り入れる方針を出しました。

例えば、次のような分類です。

機械工学はイギリス
医学はドイツ
農業技術はアメリカ
法律はフランス

http://rdarc.rds.toyo.ac.jp/webdav/frds/public/kiyou/rdvol1/rd-v1-99.pdf
科学技術と日本社会 -その受領過程と課題ー 長濱元より。




医学用語にドイツ語が多用されているのは有名ですね。

カルテ = 英語なら card(カード)
ワクチン= 英語なら vaccine(ヴァクスィン)
ノイローゼ=英語なら neurosis(ニューローシス)


農業技術がアメリカと言われれば、『少年よ大志を抱け』のクラーク博士が思い浮かびます。

これらの技術者は『お雇い外国人』といわれ、当時の日本人平均年収の20倍の金額で雇用されたそうです。

仮に、現在の平均年収を500万円として計算すると、なんと1億円の年俸です。

おそらく税金もかからないでしょうから、すごい収入ですね。
でも、それなりの活躍はしてくれました。


もしも、一国の技術に頼っていたら、植民地化の可能性もありました。
明治政府の先見性に敬意を表します。






イギリスの影響を受けた日本の科学技術



東京帝国大学工学部の前身となった工部大学校には、イギリス人の大エル博士等が招かれて当時としては世界で最も先進的な工学教育カリキュラム編成され、それが日本の工学教育のモデルとなっていたことを見逃せません。





イギリスの技術をお手本にしたものとして、次のようなものがあげられています。

鉄道のレール幅
(イギリス人技術者エドモンド・モレルが民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、
日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めている)
レンガのイギリス積み(砲台や多くの建築物に採用)
ガラス工業品(板ガラスの製法)
冶金技術(イギリス式反射炉を建設など)
上下水道整備(ウィリアム・K・バートンなど)
測量技術


自動車技術も含まれています。



なぜイギリス車は右ハンドルなのか

イギリスの機械工学の影響を受けて、イギリスと同じく右ハンドルになったのは理解できたとして、そもそもイギリス車がなぜ右ハンドルなのかが謎ですね。

ドーバー海峡を挟んで、大陸側のフランスは左ハンドルです。
どうしてこんな違いが出たのでしょうか。





一頭だての馬車では御者は右側に座る


イギリスの馬車は、基本的に1頭だてで、御者は長い鞭で馬を操リます。

この鞭が、馬車の後ろの積荷や幌に当たる可能性があるため、御者は、馬車の右側に座リます。
鞭を右手、手綱は左手というわけですね。

左側通行で馬車同士がすれ違う際に挨拶をしやすかったという便利さも重なり、右ハンドルのルーツになったといわれています。





多頭だての馬車では御者は左に座る

ヨーロッパ大陸やアメリカ大陸では、馬車で移動する距離も長かったので、馬を2列に配した2~6頭だての馬車が主流でした。

御者は1本の鞭で、両側の列の馬を操らなければならなかったので、馬車の左側に座ったのです。
右手で持った鞭が、馬車の中心にくるように。

そのため、鞭が後ろの積荷等に当たらないように、御者台は馬車の高い位置にありました。
たまたま、大陸では右側通行が主流で、同時に馬車の御者が左側に座っていたので、左ハンドルの基本になったということです。




人は右、車は左の法制化は

日本では、人は右側通行ですが、これに関して武士の刀の位置や鞘当の危険などをまことしやかに書いているサイトがあリますが、現代の法制化にはなんの関係もありません。

また、江戸時代には、歩く位置に特別な決まりがなかったというのが、最近の定説です。



右ハンドルの車は、左側通行になるのが当たり前です。
対面交通の原則から、車が左なら人は右側を歩くのが当たり前です。

これをきちんと法制化したのが『昭和22年道路交通取締法』です。



(出典:wikipedia/対面交通)




参考資料

HOPPER「左‐右:なぜ運転ルールは違うか」(1983年)

18世紀19世紀のイギリスの荷馬車は、コニストゥガ(注:西部劇の幌馬車の元祖)より小さく正面に御者席があった。御者は、後方の荷物に妨げられることなくその右手で長い鞭が使えるようにも御者席の右側に座った。対向してくる荷馬車と行き違う際、御者は道路の左側に寄る傾向があった。…こうして中世の左側通行の方針が近代のイギリスに持ち越された。

なぜ多くの国々は最近イギリスに影響されず右側通行と定めているのか。その理由は18世紀末にさかのぼり、2頭ずつつないだ6頭または8頭立ての大型荷馬車の出現によるのである。これら荷馬車のなかに、アメリカ東部のコニストゥガ・ワゴン--大型幌馬車の先触れ--があった。コニストゥガ・ワゴンは、最初ペンシルバニアのコニストゥガ渓谷から近傍の都市に小麦を運搬するのに使われ、御者席がなかった。御者は鞭を右手に持ち、左側最後尾の馬に乗って馬車を操縦した。
反対方向に行く2台の荷馬車が…、双方の御者の自然な傾向はそれぞれの車輌を右側に寄せることであった。このようにすることによって、御者はその左側を見とおして車軸のこしきや車輪がぶつかるのを避けることができた。
1792年ペンシルバニア幹線道路の右側通行が州議会で制定された。州内すべての道路で右側通行を命じた最初の州法が1804年ニューヨーク州で通過した。



マイケル・バーズリー「左ききの本」(1973年)

自動車協会およびロンドン王立自動車クラブは各方面から意見を受け取った。ある見解は、数頭立ての馬車の場合御者たちは常に右側に坐っていたから、彼らはムチを自由に--かならずしも他のムチを振る人に当たらないように--使うことができたであろうというものであった。
彼らが他の車輌と出会った時は左側に寄せて二車間のゆとりを十分にとるようにするのが自然であった。
スコットランドでは1772年に交通法が制定されて左側通行となった。イングランドでも1835年道路交通法では、左側通行を守らない者には罰金刑を課すことが定められた。

フランス革命説やナポレオン説に対して第三の説があり、これは位置に関するものである。御者は一連の馬の後後方の馬にまたがって、彼らを最も御しやすい場所を占めるのが慣例であった。ということは、通行する時は安全のために四輪大型馬車または四輪の荷馬車は右側に寄って走らなければならなかった。このやり方はアメリカで行われたらしい。…大ほろ馬車、つまり、ペンシルウァニア州のコネストウガ渓谷から近くの町へ小麦を運搬するために使った、船のような四輪大型荷馬車にも、後列左の馬に御者がおり、そのため他の荷馬車とすれちがう時は右側に寄せて走った。




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