2021412(月)

良き統治

ピエール・ロザンヴァロン 宇野重規 解説『良き統治 大統領制化する民主主義』 みすず書房 2020年

今年の1月までトランプ氏がアメリカ合衆国大統領であった。この事実は僕にとって大きな謎です。USAの有権者は何を考えて、彼にどのような政治を託したのだろうか、ということがよく理解できないでいます。異国の問題だから関係ないとよというスタンスもあるかもしれませんが、自国のさまざまな政治的混迷もあって、やっぱ、考えていかなければならない問題事項であると僕の意識の中で結構引っかかっています。そんな中で、同書を読みました。ピエール・ロザンヴァロン教授はポピュリズムが生み出される政治的土壌を、僕がいままで読んだ本の中でいちばんわかりやすく論じています。以下に、僕がポイントと感じた内容をまとめてみました。

・はたして独裁化するポピュリズム政治家の暴走に、有効な歯止めを打ち立てることはできないのだろうか。その上で、現代社会における人々のニーズに応える、新たな民主主義の展望はありえないのか。今日の世界において目につくのは、ポピュリズムと独裁的な指導者たちである。既製政治のゆきづまり、とくに政党政治の不振に対する不満の増大は、政治家を含むエリート層への批判を加速させている。ポピュリズム政治家の多くは、伝統的な政党組織を「中抜き」にして直接有権者に訴えかけることを特徴としている。硬直化した政党組織では汲み取れない人々の不満や不安に訴え、その支持をエネルギー源に自らの影響力を拡大していく。時として、彼ら彼女らは伝統的な人権尊重や権力分立の原則さえ軽視し、情報操作や隠蔽によって政治的公開性を踏みにじる。自らに批判的なメディアを激しく攻撃するなど、言論の自由を顧慮することもない。

・ロザンヴァロン教授はフランス革命まで遡りフランスの政治状況を検討しつつ、ワイマール共和国からナチスの独裁に至った歴史的事実なども射程に入れて、政治史、政治思想史の研究を通じて、民主主義と民主主義思想の軌跡を把握するという方法で、不確実な未来における民主主義の新たな姿を展望している。

・被治者のものとなる民主主義(dèmocratie d’appropriation)のために重視しなければならない要素は、
理解可能性、統治責任、応答性の三つである。

・理解可能性は、社会とそれを動かすメカニズムを実質的に理解する企てへと向かわせる。そして、それは、市民が公共機関の活動を自分たち自身で把握する可能性のことでもある。これにより、個々人が真のシティズンシップと呼びうるような状態に置かれるだろう。真のシティズンシップとは、実際の社会関係や再配分のメカニズム、さらには平等社会の実現が直面する諸問題について理解を深めることである。その目的は、単なる情報の利用可能性を超えて、社会を解釈することにあるのだ。この可能性を高めるためには、学校、メディアが重要な役割を担う。とりわけ、メディアは、単なる、量的水準ではインターネットが失わせてしまった実践的かつ民主的な中枢性を取り戻すことになる。情報が溢れる世界にあって、彼らに情報の序列化や解説の仕事に貢献してもらうことは極めて重要である。

・統治責任は、権力の保持が選挙から直接帰結するとしても、権力の行使の方は、認証とチェック(これらは継続的なものである)についての別種のメカニズムと関連付けることを認める方法の一つである。それゆえ統治責任は、被治者と統治者の関係を構築する主要な要素である。それは、統治者をコントロールの諸形式に服せしめることによって被治者に権力を再び付与する。統治責任を負うということは、実際、このような制限を実質的なものとする手続きに統治者が従うということである。別の仕方で、統治責任を理解すると、「企図的な意志」、「再帰的な意志」を区別することを含意する。企図的な意志とは、エネルギーと想像力として、抵抗を打ち破り、逆境に打ち勝ち、持続的であろうという決意として理解できる。歴史上、それを体現した典型的な人物は、例えば、「意志の食人鬼」と呼ばれたナポレオンである。再帰的な意志は、社会を貫く紛争、不平等、不和、偏見を露わにするために考察する。それらを万人に見えるものとし、それらを公的な議論の対象とするためである。この場合、統治者の履行約束は、より公正かつ自由で、より平和化された社会を打ち立てるために、社会が自分自身に対して行う共同作業に関わるものとなる。再帰的な意志の力は、社会に対して、己の実際の構造が己をどのように身動きできなくさせているかを知覚させ、そのことによって社会改革を実現させる(語源的な意味での「改革」)、という能力と結びついている。それゆえ再帰的な意志の行使は、明晰に状況を判断する作業とも関わる。

・応答性
 今日、地球上のどこであっても、市民は、自ら選んだ者たちに自分の声が届いているとか、代表されていると徐々に感じなくなっている。市民が投票の際に表明した意見は、議会の内奥に消えていき、統治者たちは〔市民の意見に〕聞く耳を持たないようにみえる。他方、いまや、ごく普通の市民の意志は、ソーシャル・ネットワーク上でバラバラに表明されるだけである。その意志表明は、圧力集団の利益に巧妙に操作されているか、あるいは不明瞭な抗議表明に退行している。このように、統治者の感受性の欠如と、衰弱した市民の意志表明が同時に結びついている。
これから、社会が権力を己のものにするということは、統治者を自動的に[社会の]後見下におくという、委任の観念から帰結すると想定されてきた様式(周知のように、それは決してうまくいかなかったのであるが)とは別の様式において実現される。まずは、{政策の}正当化を強制されることと、{政策に関する}情報を循環させることによってこそ、権力は今や社会に歩み寄ることができる。そして同時に、市民は、物事をよりよく理解し、今の争点を認識し、自分たちの体験に言語表現と意味を与えるための手段を与えられたとき、自分がより強いと感じる。なぜなら[権力との]距離感や[権力を]不当に奪われたという感情は、無知に由来するからである。逆に、その機能がより分かりやすく、より正確に説明を行う権力は、傲慢さを失う。権力は透明になればなるほど、構造的にますます傲慢でなくなる。だから、市民が情報や知識の循環に関与していると感じるとき、実際、彼らは、統治者と新しい関係を築いているのである。市民は、権力を「奪取」したり、権力に「命令」することによってではなく、権力を再定義し、それを別様に機能させるよう促すことによって、権力を己のものとするのである。こうして相互作用の民主主義においては、社会的な権力の新しい政治的な配置-「エンパワーメント{capacitation}」-が実現される。

・民主主義が機能する条件をめぐる議論を、より強固な共同性を生み出す条件の理解へと架橋しながら、民主主義そのものをめぐる仕事として把握することが重要である。

最後まで、読んでくださいましてありがとうございます。「で、結局、お前何がわかったのよ」という問いが胸の中に起こっています。その問いには、「民主主義はいろいろ問題を含んでいるが、だけど、全然意見の異なる人々とも議論しながらも、それらの問題を解決して進んでいくしかない。民主主義において間違った判断もなされる場合もあるかもしれないが、政治においての、思想、行動、制度としての土台は、これしかないということがわかった。」と僕は答えます。ブルデューもすごいけど、ロザンヴァロン教授もすごい。(同等比較級的)このことを、今の僕は感じております。






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