2013年9月12日(木)
かたち
掘って掘って綺麗に綺麗に。

掃いて掃いて綺麗に綺麗に。
庭は人の手によって出来上がっていくものです。
放ったらかしでは何にもならない。
一度人が手を掛けた場所は放ったらかしにしても
自然には戻らないと考えています。
庭は人が手を掛けて創るものです。
そしてそれを人の手で維持、発展させていくものです。
私達はその原型を創っているに過ぎない。
よく「カタチ」という言葉を使います。
「かたち」も突き詰めればその言葉の持つ意味にさえ
深いものがあります。
ひとつあげれば、建築家の菊竹清訓氏の『代謝建築論 か・かた・かたち』があります。
「かたち」(形態)を創り上げる「かた」(技術)があっても、そのものを創る目的である本質「か」を伴わなければ、又は明確に根底にそれが無ければならない。
当然、それは付け焼き刃でも人まねでも「かたち」とは呼べないし「デザインした」とは言えないという事です。
そこに意味を見出すために考えて考えて、庭の場合はそこに住まう家族の幸せにどれだけ貢献できるかという事まで考えが及んでいるかという事を見据えなければいけないのです。
無責任ではいられない。デザインするという事はその産み出したカタチに責任を持たなければならないということなのです。

掃いて掃いて綺麗に綺麗に。
庭は人の手によって出来上がっていくものです。
放ったらかしでは何にもならない。
一度人が手を掛けた場所は放ったらかしにしても
自然には戻らないと考えています。
庭は人が手を掛けて創るものです。
そしてそれを人の手で維持、発展させていくものです。
私達はその原型を創っているに過ぎない。
よく「カタチ」という言葉を使います。
「かたち」も突き詰めればその言葉の持つ意味にさえ
深いものがあります。
ひとつあげれば、建築家の菊竹清訓氏の『代謝建築論 か・かた・かたち』があります。
「かたち」(形態)を創り上げる「かた」(技術)があっても、そのものを創る目的である本質「か」を伴わなければ、又は明確に根底にそれが無ければならない。
当然、それは付け焼き刃でも人まねでも「かたち」とは呼べないし「デザインした」とは言えないという事です。
そこに意味を見出すために考えて考えて、庭の場合はそこに住まう家族の幸せにどれだけ貢献できるかという事まで考えが及んでいるかという事を見据えなければいけないのです。
無責任ではいられない。デザインするという事はその産み出したカタチに責任を持たなければならないということなのです。
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