201537(土)

庭をつくる人・1


エゾリスの悩みを聞いてあげる心優しき男。

アカイケ ヒロオミ。

「優れているという事は、優しいという事なんだよ。」

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「ルールルルルル...............」

フジヤマ ユウヤ。

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「庭をつくる人」
室生犀星
つくばい

 つれづれ草に水は浅いほどよいと書いてある。わたくしは子供のころは大概うしろの川の磧で暮した。河原の中にも流れとは別な清水が湧いていて、そこを掘り捌さいて小さいながれをわたくしは毎日作って遊んだものである。ながれは幅二尺くらい長さ三間くらいの、砂利をこまかに敷き込み二た側へ石垣のまねをつくり、それを流れへ引くのであったが、上手かみての清水はゆたかに湧きながれて、朝日は浅いながれの小砂利の上を嬉々と戯れて走っているようであった。自分はところどころに小さい橋をつくり、石垣には家を建て、草を植え花を配したものであった。此の頃になってつれづれ草ばかりでなく、水は浅く川はば一ぱいにながれて居る方がよいと思った。

水というものは生きているもので、どういう庭でも水のないところは息ぐるしい。庭にはすくなくとも一ところに水がほしい。つくばい(手洗鉢)の水だけでもよいのである。乾いた庭へ這入ると息づまりがしてならぬ。わたくしたちが庭にそこばくの水を眺めることは、お茶を飲むと一しょの気持である。

 わたくしは蹲跼つくばい(石手洗い)というものを愛している。形のよい自然石に蜜柑型の底ひろがりの月がたの穴をうがった、茶人の愛する手洗石である。庭のすみに置くか、中潜りの枯木戸の近くに在るものだが、此のつくばいの位置は難むずかしくも言われ、事実、まったくその位置次第で庭相が表われやすい。わたくしは茶人や庭作人の眼光外にいるものだが、しかしこの位置だけは定石であるだけに踏みやぶるわけにはゆかない、つくばいだけは背後うしろの見透しが肝心である。矢竹十四五本ばかりうしろに見せ、前石(つくばいに跼んで手を洗う踏石)の右に矮ひくい熊笹を植えるのもよい、とくさは手洗いにつきすぎて陳腐であるから、若しこれを愛する人があるならば此のつくばいから四五尺隔はなれたところに突然に植えて置く方が却ってよかろう。しかしつくばいとのつなぎのために砥草とくさのわきに棄石がなければならぬ。或る庭で見たのであるが唯の一本の枝ぶりのよい山茶花の下につくばいがあり、水さばきの鉢前の穴の上に山茶花四五弁こぼれている風情は全くのよい姿をしていた。これは偶然に初冬のころだったので目を惹いたのであろう。

 いっそ此のつくばいのうしろに猗々たる藪畳があっても、つくばいが相応に立派なものだったら百畳の竹をうしろに控えていても、しっかりと抑えて据えられるであろうと思う。主としてつくばいは朝日のかげを早くに映すような位置で、決して午後や夕日を受けない方を調法とする。水は朝一度汲みかえ、すれすれに一杯に入れ、石全体を濡らすことは勿論である。その上、青く苔が訪れていなければならぬが、一塵を浮べず清くして置かなければならぬ。口嗽ぎ手を浄めるからである。

 兼六公園にある成巽閣の後藤雄次郎作の四方仏は、小流れに沿うて据えられ、石仏四体が刻まれている。小流れの両側に奇石珍木を配してあることは言うまでもない。平常閉してある庭中の幽雅は木々草石の上にこもっていて、穏かなすれない極寂ごくさびがあった。上流に突然とした砥草の茂りがあるのも、老巧な植木やの手なみが窺われていた。わたくしはこの手洗いに仏を刻んである因縁を窃ひそかに考えて見て、清きが故なお浄かろうとする意図を床しく思うた。茶庭では燈籠は木のうしろにいても、手洗いは上手かみてに立たなければならなかった。つくばいは人の手にふれるものだけに、たとえ隅の方にあっても品格は上手に位するものである。瑞雲院の庭のつくばいは二方の踏石から辿ることになり、一枚の短冊石を踏んで行くのであるがその打ち方も厳格であった。兼六園の池のきわの手洗いは大石であるが、三抱えくらいの椎の大樹の根元にしっかりと置かれ、雄心を遣るに豪邁であった。わたくしはまだこれほどの大樹の根元に置かれた手洗いを見たことはない。

 つくばいの品格は最も秀すぐれたものでなければならず、形は大きくも小さくもない、程よい見馴染みなじみの快いものでなければならぬ。何となく奇岩めいた姿つきで、高峯一端の清韻を帯び、そのうえ雲霧を掻き起こすような気もちのものを尊ぶことは実際である。聊斎志異の白雲石の口碑のように穴あり時に綿のような雲を吐かねばたらぬ。そして鉢(水を入れるところ。)の中は古鏡のように澄み古色自ら在る体のものでなければならない。蒼い底に水をたたえた一基のつくばいは、何か庭の中に人あって鏡を見ているような心もちを起させるようである。実際、一掬の清水はよく庭裏の誠をうつすからである。

 手洗いにはわたくしの知っている限りでは、普通のつくばいの外に、しゃれた石臼のような伽藍形があり、それは円い石に円い水鉢がうがたれている。最もっとしゃれたのに唐船というのは、自然石の鍬のような反りを持った石の左よりに水鉢があって、むかしの唐船のへんぽんたるに似ていて風致あるものである。司馬温公われまつばというのは三方に峯のある石のまん中が水鉢になり居り、風雅であるが居処いどころをきらうものであるから、鳥渡ちょっと据えるところに難しいしろものである。円星宿は普通の胴円どうまる通しの手洗いであるが、石水壺は先でひろがり底すぼまりの置水鉢で、石材次第で栄えるものだが、わたくしは嫌いである。却って石水瓶の三方取手のある枕型の胴すぼまりを面白いと思っている。支那朝鮮によくある大壺取手づきに似ていて、石であるため陶器以上のおもしろさである。陶器と石とは孰どちらが面白いかと言えば、味の細かいことは到底陶器には及ばないが、一味通じた底寂しい風韻枯寂の気がながれ合い、ときに陶器に見味うことのできぬところに、わたくしの心を惹き何かを思うさま捜らしてくれるのである。そのほか方星宿の四角なのもあるが、取り立てて言うまでもない。富士形、ひょうたん形に至っては、われわれ雅人と称するともがらには要なき俗手洗いである。つくばいは飽迄自然石を穿ったもので水鉢の磨きも叮嚀に寂然たるものでなければ面白くない。赤日石林気というのも又つくばいの銘でなければならない。

 筧手洗いというのは高みにある手洗鉢に筧の水をしたたらすのであるが、これは生きているようで風致湧くごときものがある。凡兆の「古寺の簀の子も青し冬がまへ」という句があるが、何となくこの句の趣のような山住み山家の気持を表わすもので、春おそい日の永いころに筧の滴る音を書屋で聴くのはこころ憎いものである。その滴る水の流れ口を次第に低めにして自然に敷砂利しきじゃりの間を縫うてゆく趣の深さは、わざと細流をしつらえるより幽寂新鮮味は数倍するであろう。

 四方仏というのは角胴四面に仏をきざんだのであるが、清韻愛すべきものである。わたくしは所謂難波寺形という大樹の下に据える手洗いに、姫蔦の蔓を這わしたことがあったが、蔦が石面一杯に蒸しつき、葉と葉との間に一掬の水が閑のどかに澄んでいるのは、まことに天来の穏かさを保って、限りなく美しいものである。茶庭では手洗いの前に湯桶手燭を置き、茶席の会中立前の所作の一つになっているそうである。わたくしは茶の方は詳しくないが、其行きとどいた精神にはいつも敬服している。茶道はまた色道に通ずというわたくしの哲学は、古今の茶道大義でなければならぬと思うている。清浄の中にいて色道を思うの情は、林泉に踞して亦垂鉤の境に蹲むと一般であろう。水光日を浮べ出て転た佳人を想うの心を誰も咎めるものはいない。こんな色道は枯れ侘びてなお余燈に対むかうようで、わたくしは好きである。遠州好みの茶庭のように大樹一本、小樹四五本、踏石を分けた中庭括り、八ツ窓茶室というような感じである。そのように整うところに何かの色があった。さびももとを掘じくり出すと何かの色が出て、褪めていて懐しいものである。


「庭を造る人」改造社
 つくばい
 1927(昭和2)年







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