2015319(木)

庭をつくる人・3

庭縁記×1152

庭をつくる人・3

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ふゆっぽい仕事。  春はもうすぐ。
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「庭をつくる人」

室生犀星

竹の庭

 庭は春さきの冬がすっかり終りかけないころがよい。冬のさむさが隅々に残り漂うているに拘らず、春さきの景色もむらさきぐんだ影になり、土はしめりを帯びている。その土や苔のしめり工合に得も言われぬ行届いた叮嚀さがこめられて、旭のあたり加減の匂わしさは類もない新しさである。何となく植えてみたいのぞみを抱く、木々の間を覗いてあるくと、枝を透いて匂うてくるものを感じる。つまり庭全体の空気が不思議な人情的なるものにつつまれて囁いてくるようである。穏かに草の芽のあたまに当る旭のいろに天が下のめぐわしさを感じるのである。季節の故郷である。

 厳格と寒威との間に立った石燈籠がやっと柔和に見え、ひと雨のあとの濡れ方もまた春の色であった。灯ともし石のきわに芽が生えているのを見ると、わたくしは曾て或る茶人の庭にあった利休形の古い燈籠を思い出した。庭のまん中に据え、松の下に蔓をからませた姿は、あっさりと好ましかった。松一本の好みもよかった。茶室にいたわたくしは主人が立ったあとで、釜の鳴るのを聴きながら眺めていると、燈籠の落着き方は能く釜の音に調和していて、わたくしをして茶室で眺めるものは茶室との結びを持っていると思わせた。燈籠は温順の相であった。胴の細い深いさびをこもらした利休形は、一面あたたかい心もちがあった。前後を通じてのあの位しずかに燈籠をながめたことがなかった。頭の奥の方にいまも閑やかに見えるような気がする。

 遠州形は笠がふっくりと高盛りになり、荒いつくりで好きである。何となくたたずみ方に奥行があるが、宗和形は蕭条として枯木戸のある四方見通しの、庭に向くと思うた。わたくしは雑木四五本の立った下へ飛石を打ち、そして又雑木二三本の奥に宗和形を眺めたいと思うている。有楽形、宗易形、珠光形、春日、雪見などあるが、わたくしの好みとしてはせいの高くない肉の相応にある茶庭燈籠が一本あればよい、いや、もう一本ほしいものである。若し心に叶うたのに出会せば、庭中人有人不語の境を読みたいものである。燈籠は、眼をもっている。庭の四方をぐいぐいと緊めつけ纏めているものである。若し燈籠が詰らない悪作であったら庭の品を落してしまうものである。わたくしは曾て面を覆うような燈籠を崩して、台石と中台とを飛石につかうて見たが、春日であったために鳥渡ちょっとよい飛石につかえた。蒼みもあり燈籠らしい由緒をも持っているせいか、仲々よかった。一たい燈籠の居所は木のかげに頭だけ見えるくらいがいいものである。燈籠を繁りの前に置くのは、これ見よがしでよくない。若し繁りの前へ出すなら庭のただ中からやや隅へかけてあどけなくぽつんと置けば、却って無邪気に見えるが、そういう場合よほど古さや形のよい、せいのつまった燈籠でなければならぬ。燈籠が木と木との隙から木の葉の蒼みより最もっと深い蒼みで、すれすれに姿をかくしているのは清幽限り無きものである。いまどき刻みの墓石のようなものを樹てているのを見ると、嫌悪の情さえ起らないでぞっとするくらいである。燈籠一本に庭の大部分の魅力をもたせなければならぬが、といっても他を疎んじるわけではない。何とも言えない磨きのある調度、行荘の清純、あどけなく閑かにそして眼立たぬように作るのが奥の手であろう、質素の庭ひろがりで行くのである。一瞥荒く二瞥やや細く三瞥驚嘆する程の細微を尽すべきである。見るほど飽かない謂いである。一草に心かたむけてあるを見るときに、あるじの愛の深いことを感じる。大した築山や池をほめるのではない。あるじの愛さえ庭に行き亘って居ればわたくしの望は足りるのである。曾て前田という本郷住人の庭園を見たとき銅製の鶴が二羽、からの川の中に置かれてあるのを見て、わたくしは眼を汚された思いがした。或は唐獅子を置き、大砲をさえ飾ることを思うと、わたくしは情無くなるばかりである。好みは人間をつくるものである。

 これは曾て『サンデー毎日』に書いたことがあるが、或る客があって庭をつくろうと思うが、千円くらいで一寸としたものが作れるだろうかと言ったから、わたくしは発句でも書くように、一枚の半紙に無駄書をして手渡したことがあった。

竹   (矢竹或いはしの竹)      五百本
飛石  (拍子木二本をふくむ)     五十枚
すて石                 三つ
茶庭燈籠(利休がた)          一本
つくばい(一つは大きく別ののは小さく) 二鉢
山土                  十車

 そして植木屋手間賃五十人分二百円は例外である。しの竹、七十円。飛石(くらま一枚五円見当。)二百五十円。すて石、二百円。茶庭燈籠、三百円見当。(上物はあるいはむずかしい。)つくばい、二鉢、百円。その他山土十車代等千円である。

 これだけで作り上げたものは十年あとには苔がついて、竹も根を張り相応の庭になるであろうが、ただ、面倒なのは竹は二タ月に一度ずつ枯葉や蟻、毛虫のつかぬ様の手入れ、及び刈込、筍仕立、(それは毎年古竹を伐り新竹を立たすこと。)皮剥ぎの手入れが肝要である。飛石の高金は飛石がわるくては庭が畳めないからで、燈籠の三百円は捜したら適当なのがあるかもしれぬ。また無いかも知れぬ。一本あればいいのである。

 つくばいは手頃なのが一つでいいのであるが、わたくしの癖として二鉢ほしいのである。役石前石はもちろん買入れるのだが、これの百円は見くびりすぎているようだ。一つは竹の奥に一つは縁側から七歩くらいの居どころにする。山土の十車は苔を生やすためである。十車では足りないかも知れぬ。以上は別に深い意味のある庭ではなく、又茶がかった庭でもない。唯、このような庭もあるくらいに考えて貰えばいいのである。下草は一切植えない。歯朶一枚でもこの庭にはおことわりである。一体、庭というものは朝夕二回の掃除と打水とが必要のあるものである。

 竹の植方では東南西に株を乱して植えて置く。這い出しの筍を見とどけた植え方をしなければならぬ。東の方では朝の内のかげを眺め、南西では終日その猗々たるかげを苔の上に撮らねばならぬ。茂りは尖端に揉みついた風情よりも、折々枯葉を取り葉と葉との間をすかし、空の色を伺い見るべきである。竹は画くがごとく伐るべしとはわたくしの信条の一つであるが、手入れ次第で美しく見えるものであるから怠けものには竹はやめた方がいい。棄石は大体において三方へ平凡に置く、北へ面した方へだけ二つ片よせなければならぬ。これは隣家の関係もあり一度地勢を見た上でなければ分らない。

 この庭の仕上りは一つには竹の葉ずれの音をきくためと、いくらか幽寂閑雅の心を遣るためとである。燈籠というものはその庭を一と目眺めたときに、既もうその位置が宿命的に定っているほど動かないところにあるものである。庭は四方の均整を引締めるために、眼光紙背に徹する底のまなこをもたなければならない。燈籠の位置で庭が本定(ほんぎまり)になるのである。


「庭を造る人」改造社
 1927(昭和2)年





「料理をつくる人」

カービーやす


プロの料理人が事務所に来て料理をつくってくれた。

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当たり前だが、超うまかった。

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でも、彼は真っ直ぐに庭を目指す。



またよろしく。
とフジヤマも申しておりました。







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