2011年7月30日(土)
ちびっこイチゴのチョコレート
ふつうの日記×71

ネコちゃんが見つめているイチゴチョコは
札幌発のスイーツ♪
『ちびっこいちご』
ヾ(* 'Д' )ノオハツデス♪
ここしばらくお土産たくさん頂いちゃいまして
とめどなくカロリーオーバーの日々を送ってしまいましたw
神さまのいぢわる~っ(人-ω-)゜*。
なんて言ったら怒られますねw
自制心の問題です(はい)

しかし甘い誘惑の前に
自制心はガラガラと音をたてて
崩れていったのであります…
馬のスティックチョコ
可愛い~っといいつつ
パクッ♥
ウマぃ(´▽`*)ノ
と、思ったらロイズチョコでした♪
道産子のイメージっぽいですね
ミルクたっぷりで美味しぃ
六花亭のお土産で人気のストロベリーチョコも
久しぶりに頂きました
(≧ω≦ )スッパ!!
半分にかじった時の鮮やかな色がキレイ♪
しばらくかじらずに口の中でコロコロして
甘さを味わってからかじる派です
写真にはありませんが
(かじゅさんの旦那様お勧め)
北菓楼バームクーヘンも一つ頂きました
食べたいと思っていたのでヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪
しっとりして美味しかったぁ

イギリスのお土産のフレーバーティには
サクサクのバタークッキーまで付いていて
さぁ…
お食べ~なさ~ぃ
疲れきぃ~ったぁ~♪
神さまどころかマドンナにまで
勧められてしまい
つい…モグモグ)))
どーんと1箱頂いたジャガイモで

久々の「イモ団子」も作りました♪
やっぱ美味しぃ♥
これは糖分はとうぶん(乂`д´)アウト!って感じですw
さて、北海道への出航が近づいてきました♪
最近黒いキタキツネが出没しているらしいですね!?
見た方いらっしゃいますか?
小熊みたいな顔で可愛いですねぇ♪
こちらはキタキツネ(グラビア系?)
はいはいリラックスして~っ
そうそう♪良いね~っ
う~んセクシィ~ッ♥
またこんな撮影会が出来たら良いなぁ♪
キメッ(`・ω・´)
それでは皆さま(*・ω・)*_ _))楽しい週末を…♪
札幌発のスイーツ♪
『ちびっこいちご』

ヾ(* 'Д' )ノオハツデス♪
ここしばらくお土産たくさん頂いちゃいまして
とめどなくカロリーオーバーの日々を送ってしまいましたw
神さまのいぢわる~っ(人-ω-)゜*。
なんて言ったら怒られますねw
自制心の問題です(はい)

しかし甘い誘惑の前に
自制心はガラガラと音をたてて
崩れていったのであります…
馬のスティックチョコ
可愛い~っといいつつ
パクッ♥
ウマぃ(´▽`*)ノ
と、思ったらロイズチョコでした♪
道産子のイメージっぽいですね
ミルクたっぷりで美味しぃ
六花亭のお土産で人気のストロベリーチョコも
久しぶりに頂きました
(≧ω≦ )スッパ!!
半分にかじった時の鮮やかな色がキレイ♪
しばらくかじらずに口の中でコロコロして
甘さを味わってからかじる派です
写真にはありませんが
(かじゅさんの旦那様お勧め)
北菓楼バームクーヘンも一つ頂きました
食べたいと思っていたのでヾ(*´∀`*)ノ キャッキャッ♪
しっとりして美味しかったぁ

イギリスのお土産のフレーバーティには
サクサクのバタークッキーまで付いていて
さぁ…
お食べ~なさ~ぃ
疲れきぃ~ったぁ~♪
神さまどころかマドンナにまで
勧められてしまい
つい…モグモグ)))
どーんと1箱頂いたジャガイモで

久々の「イモ団子」も作りました♪
やっぱ美味しぃ♥
これは糖分はとうぶん(乂`д´)アウト!って感じですw
さて、北海道への出航が近づいてきました♪
最近黒いキタキツネが出没しているらしいですね!?
見た方いらっしゃいますか?
小熊みたいな顔で可愛いですねぇ♪
こちらはキタキツネ(グラビア系?)



またこんな撮影会が出来たら良いなぁ♪

✲お知らせ✲
こちらのブログでお買物が出来るようになりました
仕入れ先で「コレ良いなぁっ」と思った物を少しですが
アップしてみました。
オリジナルデザインの販売とアップは
もう少し先になりますが
長~ぃ目で見て頂ければ幸いです。
それでは皆さま(*・ω・)*_ _))楽しい週末を…♪
この記事のURL|2011-07-30 16:49:35
2011年7月26日(火)
南極着岸!天才と世界で最高の落ちこぼれ達(終)
旅行日記×93

トップ画像は兵庫県にある『植村直己冒険館』
です。
1994年の開館式には病身の身を押して出席した
西堀栄三郎氏の姿がありました。
「宗谷」南極観測隊の最終話になりますが
今までのお話はココ①
②
副隊長の西堀氏は南極横断を生涯の夢とした植村直己に
六分儀等の天測装置とその使用法を教えるなど、
有力な支持者の一人でもありました。
植村直己さんに人気があるのは
彼が素晴らしい冒険家だということだけではなく
その人柄にあるように感じます。
こんなエピソードを一つ…
世界最高峰エベレストへ日本人で初めて登頂する時
あと数メートルの地点で一緒に登山していたチームメイトに
植村直己は
「先輩どうぞお先に登頂してください」
と先を譲りました。
極限の状態であるにも関わらずこんなことが
出来るなんてなかなか出来ることではないと思います。
そして下で待っている登頂出来なかったチームメイト達へ
ただでさえ30キロはある重いリュックに
ありったけの石を詰めて帰ってチームメイト達に手渡しました。
同じ重さのリュックを背負ってみましたが
立ち上がるのがやっとでした
ヒィー(>ω<ノ)ノ重っ!!
登山直前に奥様と交わされている会話が公開されていたのですが
「もぉ~やだな~行きたくないよ~」
なんてダダを捏ねて甘えている人間らしい直己さんにも
とても親近感が湧きました(笑)
豊かな緑の中ある記念館は植村直己さんの笑顔にピッタリで
素敵な記念館でしたよ♪



≪南極着岸!天才と世界で最高の落ちこぼれ達≫
宗谷は立ちふさがる氷の壁を砕きながら
グイグイと進んでいった
船員達はその雄姿に歓喜していた
しかしその後船は氷の海でびくとも動かなくなってしまった
ダイナマイトを爆破させても効果はなし
厳しい現実に皆の心に動揺が走った
凹む隊長…
コンコン
西堀副隊長だった
南極にたどり着いたら、そのまま越冬観測をさせて下さい。
今回を含め南極につける保証はありません。
欧米はすでに観測をはじめて います。
今大事なのは、観測成果を世界に知らしめることです。
( `д´⊂彡☆))Д´)欧米かっ!
一応こういうのも挟んでおきます
西堀氏の気持は痛いほどに伝わったが
人命に係わる決断…
考えさせて欲しい
びくともしない氷の壁
なすすべもないまま氷に閉ざされて3日目
「あ!!あそこをみて下さい!!」
隊員が氷の亀裂を発見

・・・(。_。(゜ω゜(。_。(゜ω゜!!
巨大な氷の海にできた小さな細い亀裂が
南へ伸びていた
ココに突っ込んで行くしかない!
しかし宗谷が耐え切れなかったら…
メキメキと轟音をたてながら
宗谷は突き進んだ
隊員達は身を乗り出して祈るように見守っていた
2日後
ドスン
船は鈍い音をたてた
昭和32年1月24日(南極はギリギリ夏)
「inaccessible」
そう呼ばれていたプリンスハラルド海岸に宗谷は着岸した
世界が驚いた
トム・クルーズも!あ、生まれてないw
観測に参加する資格もないと見下された日本が
人類未踏の地に着いた!!
皆涙が止まらない隊員達と
誇らしげに揺れる日本の国旗

その当時動物園にもいなかった飛べない不思議な鳥
ペンギン達が迎えてくれました

募金した子供たち
国民の夢
国中が歓喜の声を上げました
届ける手立てもないのに
文部省にはたくさんのセーターや物資が送られてきました。
昭和基地と名づけられた観測基地に
プレハブ住宅が組み立てられました

喜びもつかの間
ココからが本当の決断と闘いになりました
本来の目的は「南極の観測」
余りに困難な航海に隊長は一旦全員帰還し
再度挑戦するという予定を立てていたのですが
西堀氏の
「今回を含め南極につける保証はありません…越冬観測を」
という生命がかかった懇願に
どう答えを出すべきか悩んでいました
二人は話し合いを重ねついに西堀氏の想いを受け入れて
越冬観測の許可をしました。
越冬を志願したのは10人の若者達
学校でも会社でも
落ちこぼれた者達ばかりだった。
南極に冬を告げる雪がちらつき始めていた
1年後必ず迎えに来ます!
それは確信のない約束だということを
誰もが心に抱きながらの別れだった
越冬隊員を残し宗谷は帰国

宗谷が去った後間もなく
想像を絶する極寒の冬がやってきました
プレハブ住宅は快適だったのですが
物凄いブリザードのごう音で研究テーマを見つけるどころか
眠ることさえままならない状態になりました
精神的にも落ち込み
白髪になってしまう隊員もいました
外になど出る者もいなくなり
若者達はマージャンをしたり日に日に自堕落な
生活を送るようになっていきました。
そんな中で西堀だけは黙々と研究に打ち込んでいました。
彼は19歳の時にアインシュタインの来日で通訳をした時に進路について
助言された忘れられない言葉がありました。
「誰もやったことの無い新しいことをやりなさい
一番大事なのはやってみる勇気だ」

その言葉を人生の中に深く刻み付けて生きてきました。
自堕落な生活を送る自分達に何も言わず
一人研究に打ち込む西堀氏の姿に
居た堪れなくなり若者達は西堀の部屋に訪れて
思いの丈を吐き出します
僕達は元々落ちこぼれなんです
観測なんかできっこないんです(≧ω≦ )ノ
大学の成績は芳しくなく就職のあても無い者
気象庁に勤めるも要領が悪く僻地ばかりに回らされていた者
そんな若者達の顔ばかりだった
明くる日、西堀は無線室に行くと担当者に
無線で外国と交信できないかと持ちかけます

担当者がマイクに向かい
「CQCQこちら日本隊南極基地」
発信してみると未開の地からの交信に
各国から声が次々に飛び込んできた
「南極とはどんなところだ!?」
「何の研究をしているんだ!?」
自堕落だった若者達の心がぐらりと揺れた
西堀氏は笑顔で若者達に言った
「自分をさげすむな、落ちこぼれ程強いんや」
゜+。(ノ`・Д・)ノオォオォ。+゜よっしゃぁっ!!
が、せっかくやる気だした矢先に…
朝起きると食料コンテナを載せた地面が割れて
流されてしまうのです
呆然とする若者達…
僅かに残された食料
宗谷が迎えにくるのはまだまだ数ヶ月も先だった
もう終わりだ…
皆遺書を書いた
妻と生まれたばかりの赤ん坊への想いをしたためるもの
父母、兄弟にしたためるもの…
青白く輝く美しい雪景色は隊員達にとっては
絶望の色に見えたことでしょう
ズドーーーン!!
ライフルの音
Σ(=Д=ノ)ノヒィィッ!!×10人
驚いて外へ出ると
ライフルを手にした西堀氏
傍らにはアザラシが横たわっていました

「やる前から諦める人間は一番つまらん人間や!」
食料も調達!なんちゅぅかっちょいぃ53才!!
またまた落ちこぼれ達の心は強く揺さぶられます
皆それぞれ手探りながら研究を始めます
気象庁にいた気弱な若者は
ブリザードの中で気象観測を始めた
「とにかくやってみなはれ」
西堀の言葉が若者達の心に響いていた
ペンギンの生態観察をする者
地質の調査を始める者
皆何かしら目的を決め始めていた
就職先の決まらなかった若者は
南極の夜空に輝くオーロラを不思議に思った
Σ(o゜ω゜o)ハッこれだ!
オーロラに関しての知識はゼロだった
「やってみなはれ」
西堀副隊長の言葉が胸に響いていた
観測小屋を建て
夢中で観測を続けた
徹夜も連日で頑張った
感じたことの無い充実感だった
観測を始めて1ヶ月が経とうとしていた
その日も明け方までデーターに目を通していた
暖をとっていたストーブのあたたかさ…疲労
ふわりと眠りに落ちてしまった
その時ストーブの近くにあった新聞紙に
運悪く引火してしまう
燃え盛る炎の中
逃げるのが精一杯だった
やっぱり自分はダメなんだ変われないんだ
小屋も測量機も観測データも灰になってしまった
全てダメにしてしまった…
数日後、彼は西堀の部屋に呼ばれた
恐る恐るドアを開けると
そこには鉄パイプで手作りしたオーロラの観測機と
西堀の笑顔があった
西堀氏はかつて東芝の技術者で
日本初の真空管を開発した天才技術者という
顔も持っていました。
火事くらいでくじけたらあかんで
なんもせんと手ぶらで返す訳にはいかんやろぉ
失敗したらまたやり直せばいいんや
これでまたやってみなはれ
責めるような言葉は一切なかった
。゜(PД`q。)゜。一生忘れません
そうして観測は充実して行きました。
間もなく越冬隊員達は約束の一年が経とうとしていました。
そして日本で更なるビフォーアフターを済ませた宗谷が
越冬隊員を迎えに向かっていました
しかしまたもや氷に阻まれあと200キロというところで
身動きが取れなくなってしまっていた。
40日が経過してしまった
越冬隊が危ない…
その時パイロットが救出を申し出ました
お世辞にも条件が良いとは言えない
南極の空へと小型飛行機が飛び発った
危険だがそれしか方法はなかった
ブリザードが吹けば終わり
極寒の南極パイロットの手に汗が滲んでいた
1時間後
大空から昭和基地が見えた
ん? あれは・・・
カ ン ゲ イ
パイロットの救出を知った隊員達が
空腹と疲労でフラフラになりながらも敬意を込めて
空から見えるように大きく「歓迎」と地面に書いたのだった
全ての隊員達が救出されました
堅く握手を交わす西堀氏と永田隊長
ここに『南極観測終了』する
持ち帰った観測結果は世界を驚かせました
手探りで集めた石は南極が地球最古の大陸だと
証明するきっかけとなりました
手作りの観測機で続けたオーロラ観測も
その発生の謎の解明に結びつきました
初めての越冬から43年、昭和基地は、
世界に誇る観測基地になり昭和59年には、
科学史に残る世界初のオゾンホールの発見し
環境破壊の深刻さを世界に警告しました
この天才カリスマ西堀氏と落ちこぼれ隊員11名が
奇跡の船宗谷と共に世界に日本人の底力を見せたのです
この南極観測は永田氏の
「日本は南極観測に参加出来ます!」と言い放った
勇気と熱意に始り新聞社が日本の復興を訴え
子供達の夢となり国民の願いとなり
西堀さんという素晴らしい人がいて
そしてその助言と支えを受けて行動した隊員達…
どれを欠かしても
成功しなかったと思います。
世間で「落ちこぼれ」と言われていた者達には
世界から「敗戦国」と蔑まれていた日本に重なる姿があるように感じました。
落ちこぼれこそ強いんや!!

話が横道にそれて私の文章力では
収拾がつかなくなりマイとかちの中で
遭難してしまいそうで省きましたが
このときに連れて行ったタロとジロを含む
樺太犬の飼育(犬係り)を任命された一人が
観測小屋を燃やしてしまった若者(北村泰一氏)でした。
人間達でさえやっと救出されたなかで
犬たちを連れてくることは困難でした。
そのときの北村氏の心情やその後のお話は
またいつか(ノω`*)
凄く感動した「宗谷」そして日本隊
日本国民が一丸となって世界に挑んだお話を
プロジェクトXをベースにしながら
その他の資料&私的感情を交え
拙い文章でお伝えしました。
楽しみにして頂いた方
初めて読んで頂いた方
ありがとうございました(*・ω・)*_ _))
宗谷ってなんか凄いじゃん!
くらいにでも伝わっていたら嬉しいです
最後に思いっきり私事ですが学生時代
「落ちこぼれクラス」だった自分達を
立ち直らせてくれた先生の事を私は今でも忘れていません
S先生、本当にありがとうございました。
さて、そろそろ私も北海道に出航する準備を始めなければ…
わが家の隊長に叱られそうですww

1994年の開館式には病身の身を押して出席した
西堀栄三郎氏の姿がありました。
「宗谷」南極観測隊の最終話になりますが
今までのお話はココ①
②
副隊長の西堀氏は南極横断を生涯の夢とした植村直己に
六分儀等の天測装置とその使用法を教えるなど、
有力な支持者の一人でもありました。
植村直己さんに人気があるのは
彼が素晴らしい冒険家だということだけではなく
その人柄にあるように感じます。
こんなエピソードを一つ…
世界最高峰エベレストへ日本人で初めて登頂する時
あと数メートルの地点で一緒に登山していたチームメイトに
植村直己は
「先輩どうぞお先に登頂してください」
と先を譲りました。
極限の状態であるにも関わらずこんなことが
出来るなんてなかなか出来ることではないと思います。
そして下で待っている登頂出来なかったチームメイト達へ
ただでさえ30キロはある重いリュックに
ありったけの石を詰めて帰ってチームメイト達に手渡しました。
同じ重さのリュックを背負ってみましたが
立ち上がるのがやっとでした
ヒィー(>ω<ノ)ノ重っ!!
登山直前に奥様と交わされている会話が公開されていたのですが
「もぉ~やだな~行きたくないよ~」
なんてダダを捏ねて甘えている人間らしい直己さんにも
とても親近感が湧きました(笑)
豊かな緑の中ある記念館は植村直己さんの笑顔にピッタリで
素敵な記念館でしたよ♪



≪南極着岸!天才と世界で最高の落ちこぼれ達≫
宗谷は立ちふさがる氷の壁を砕きながら
グイグイと進んでいった
船員達はその雄姿に歓喜していた

ダイナマイトを爆破させても効果はなし
厳しい現実に皆の心に動揺が走った
凹む隊長…
コンコン
西堀副隊長だった
南極にたどり着いたら、そのまま越冬観測をさせて下さい。
今回を含め南極につける保証はありません。
欧米はすでに観測をはじめて います。
今大事なのは、観測成果を世界に知らしめることです。
( `д´⊂彡☆))Д´)欧米かっ!
一応こういうのも挟んでおきます
西堀氏の気持は痛いほどに伝わったが
人命に係わる決断…
考えさせて欲しい
びくともしない氷の壁
なすすべもないまま氷に閉ざされて3日目
「あ!!あそこをみて下さい!!」
隊員が氷の亀裂を発見

・・・(。_。(゜ω゜(。_。(゜ω゜!!
巨大な氷の海にできた小さな細い亀裂が
南へ伸びていた
ココに突っ込んで行くしかない!
しかし宗谷が耐え切れなかったら…

宗谷は突き進んだ
隊員達は身を乗り出して祈るように見守っていた
2日後
ドスン
船は鈍い音をたてた
昭和32年1月24日(南極はギリギリ夏)
「inaccessible」
そう呼ばれていたプリンスハラルド海岸に宗谷は着岸した
世界が驚いた
トム・クルーズも!あ、生まれてないw
観測に参加する資格もないと見下された日本が
人類未踏の地に着いた!!
皆涙が止まらない隊員達と
誇らしげに揺れる日本の国旗

その当時動物園にもいなかった飛べない不思議な鳥
ペンギン達が迎えてくれました

募金した子供たち
国民の夢
国中が歓喜の声を上げました
届ける手立てもないのに
文部省にはたくさんのセーターや物資が送られてきました。
昭和基地と名づけられた観測基地に
プレハブ住宅が組み立てられました

喜びもつかの間
ココからが本当の決断と闘いになりました
本来の目的は「南極の観測」
余りに困難な航海に隊長は一旦全員帰還し
再度挑戦するという予定を立てていたのですが
西堀氏の
「今回を含め南極につける保証はありません…越冬観測を」
という生命がかかった懇願に
どう答えを出すべきか悩んでいました
二人は話し合いを重ねついに西堀氏の想いを受け入れて
越冬観測の許可をしました。
越冬を志願したのは10人の若者達
学校でも会社でも
落ちこぼれた者達ばかりだった。
南極に冬を告げる雪がちらつき始めていた
1年後必ず迎えに来ます!
それは確信のない約束だということを
誰もが心に抱きながらの別れだった
越冬隊員を残し宗谷は帰国

宗谷が去った後間もなく
想像を絶する極寒の冬がやってきました
プレハブ住宅は快適だったのですが
物凄いブリザードのごう音で研究テーマを見つけるどころか
眠ることさえままならない状態になりました
精神的にも落ち込み
白髪になってしまう隊員もいました
外になど出る者もいなくなり
若者達はマージャンをしたり日に日に自堕落な
生活を送るようになっていきました。
そんな中で西堀だけは黙々と研究に打ち込んでいました。
彼は19歳の時にアインシュタインの来日で通訳をした時に進路について
助言された忘れられない言葉がありました。
「誰もやったことの無い新しいことをやりなさい
一番大事なのはやってみる勇気だ」

その言葉を人生の中に深く刻み付けて生きてきました。
自堕落な生活を送る自分達に何も言わず
一人研究に打ち込む西堀氏の姿に
居た堪れなくなり若者達は西堀の部屋に訪れて
思いの丈を吐き出します
僕達は元々落ちこぼれなんです
観測なんかできっこないんです(≧ω≦ )ノ
大学の成績は芳しくなく就職のあても無い者
気象庁に勤めるも要領が悪く僻地ばかりに回らされていた者
そんな若者達の顔ばかりだった
明くる日、西堀は無線室に行くと担当者に
無線で外国と交信できないかと持ちかけます

担当者がマイクに向かい
「CQCQこちら日本隊南極基地」
発信してみると未開の地からの交信に
各国から声が次々に飛び込んできた
「南極とはどんなところだ!?」
「何の研究をしているんだ!?」
自堕落だった若者達の心がぐらりと揺れた
西堀氏は笑顔で若者達に言った
「自分をさげすむな、落ちこぼれ程強いんや」
゜+。(ノ`・Д・)ノオォオォ。+゜よっしゃぁっ!!
が、せっかくやる気だした矢先に…
朝起きると食料コンテナを載せた地面が割れて
流されてしまうのです
呆然とする若者達…
僅かに残された食料
宗谷が迎えにくるのはまだまだ数ヶ月も先だった
もう終わりだ…
皆遺書を書いた
妻と生まれたばかりの赤ん坊への想いをしたためるもの
父母、兄弟にしたためるもの…
青白く輝く美しい雪景色は隊員達にとっては
絶望の色に見えたことでしょう
ズドーーーン!!
ライフルの音
Σ(=Д=ノ)ノヒィィッ!!×10人
驚いて外へ出ると
ライフルを手にした西堀氏
傍らにはアザラシが横たわっていました

「やる前から諦める人間は一番つまらん人間や!」
食料も調達!なんちゅぅかっちょいぃ53才!!
またまた落ちこぼれ達の心は強く揺さぶられます
皆それぞれ手探りながら研究を始めます
気象庁にいた気弱な若者は
ブリザードの中で気象観測を始めた

西堀の言葉が若者達の心に響いていた
ペンギンの生態観察をする者
地質の調査を始める者
皆何かしら目的を決め始めていた
就職先の決まらなかった若者は
南極の夜空に輝くオーロラを不思議に思った
Σ(o゜ω゜o)ハッこれだ!
オーロラに関しての知識はゼロだった
「やってみなはれ」
西堀副隊長の言葉が胸に響いていた
観測小屋を建て
夢中で観測を続けた
徹夜も連日で頑張った
感じたことの無い充実感だった
観測を始めて1ヶ月が経とうとしていた
その日も明け方までデーターに目を通していた
暖をとっていたストーブのあたたかさ…疲労
ふわりと眠りに落ちてしまった
その時ストーブの近くにあった新聞紙に
運悪く引火してしまう
燃え盛る炎の中
逃げるのが精一杯だった
やっぱり自分はダメなんだ変われないんだ
小屋も測量機も観測データも灰になってしまった
全てダメにしてしまった…
数日後、彼は西堀の部屋に呼ばれた
恐る恐るドアを開けると
そこには鉄パイプで手作りしたオーロラの観測機と
西堀の笑顔があった
西堀氏はかつて東芝の技術者で
日本初の真空管を開発した天才技術者という
顔も持っていました。
火事くらいでくじけたらあかんで
なんもせんと手ぶらで返す訳にはいかんやろぉ
失敗したらまたやり直せばいいんや
これでまたやってみなはれ
責めるような言葉は一切なかった
。゜(PД`q。)゜。一生忘れません
そうして観測は充実して行きました。
間もなく越冬隊員達は約束の一年が経とうとしていました。
そして日本で更なるビフォーアフターを済ませた宗谷が
越冬隊員を迎えに向かっていました
しかしまたもや氷に阻まれあと200キロというところで
身動きが取れなくなってしまっていた。
40日が経過してしまった
越冬隊が危ない…
その時パイロットが救出を申し出ました
お世辞にも条件が良いとは言えない
南極の空へと小型飛行機が飛び発った
危険だがそれしか方法はなかった
ブリザードが吹けば終わり
極寒の南極パイロットの手に汗が滲んでいた
1時間後
大空から昭和基地が見えた
ん? あれは・・・
カ ン ゲ イ
パイロットの救出を知った隊員達が
空腹と疲労でフラフラになりながらも敬意を込めて
空から見えるように大きく「歓迎」と地面に書いたのだった
全ての隊員達が救出されました
堅く握手を交わす西堀氏と永田隊長
ここに『南極観測終了』する
持ち帰った観測結果は世界を驚かせました
手探りで集めた石は南極が地球最古の大陸だと
証明するきっかけとなりました
手作りの観測機で続けたオーロラ観測も
その発生の謎の解明に結びつきました
初めての越冬から43年、昭和基地は、
世界に誇る観測基地になり昭和59年には、
科学史に残る世界初のオゾンホールの発見し
環境破壊の深刻さを世界に警告しました
この天才カリスマ西堀氏と落ちこぼれ隊員11名が
奇跡の船宗谷と共に世界に日本人の底力を見せたのです
この南極観測は永田氏の
「日本は南極観測に参加出来ます!」と言い放った
勇気と熱意に始り新聞社が日本の復興を訴え
子供達の夢となり国民の願いとなり
西堀さんという素晴らしい人がいて
そしてその助言と支えを受けて行動した隊員達…
どれを欠かしても
成功しなかったと思います。
世間で「落ちこぼれ」と言われていた者達には
世界から「敗戦国」と蔑まれていた日本に重なる姿があるように感じました。
落ちこぼれこそ強いんや!!

話が横道にそれて私の文章力では
収拾がつかなくなりマイとかちの中で
遭難してしまいそうで省きましたが
このときに連れて行ったタロとジロを含む
樺太犬の飼育(犬係り)を任命された一人が
観測小屋を燃やしてしまった若者(北村泰一氏)でした。
人間達でさえやっと救出されたなかで
犬たちを連れてくることは困難でした。
そのときの北村氏の心情やその後のお話は
またいつか(ノω`*)
凄く感動した「宗谷」そして日本隊
日本国民が一丸となって世界に挑んだお話を
プロジェクトXをベースにしながら
その他の資料&私的感情を交え
拙い文章でお伝えしました。
楽しみにして頂いた方
初めて読んで頂いた方
ありがとうございました(*・ω・)*_ _))
宗谷ってなんか凄いじゃん!
くらいにでも伝わっていたら嬉しいです
最後に思いっきり私事ですが学生時代
「落ちこぼれクラス」だった自分達を
立ち直らせてくれた先生の事を私は今でも忘れていません
S先生、本当にありがとうございました。
さて、そろそろ私も北海道に出航する準備を始めなければ…
わが家の隊長に叱られそうですww
この記事のURL|2011-07-26 17:29:48
2011年7月23日(土)
原田芳雄in神戸そして大鹿村
旅行日記×93

この時期
いつもなら耳をふさぎたくなる程
クマゼミの鳴き声がするのに
今年はほぼ鳴くのを聞かない
ミンミン鳴く蝉は程よい「夏」のBGMになるけれど
このクマゼミだけは好きになれない
シワシワ or シメシメ or シネシネ
こう聞えるクマゼミの大合唱は
ジワジワと心が凹んできますしかもボリューム大
今年クマゼミになにがあったのかは知らないけれど
とても嬉しい限りですε-(o´_`o)ほっ
さて、原田芳雄さん主演
「大鹿村騒動記」を観に行ってまいりました。

上映時間よりちょっと早めに行って神戸の街をブラブラ&ランチ
旦那さま御用達の中華料理店で海鮮焼そばのランチです。
「最後の晩餐はこれが良い」と、いつも言っていますw
・・・
(¬ε¬) フーン
いいもんね
私には原田芳雄がいるも~ん
佐藤浩市もいるも~ん
キヨシローもいるも~ん

お芋スイーツもあるも~ん♪
遺作となったこの映画には佐藤浩市さんも共演してるし
主題歌は「太陽のあたる場所」キヨシローです♪
嬉しいけど…。゜(/□\*)゜。わ~ん
(神戸のショッピングアーケード&映画館)
古い映画で初めて原田芳雄さんを見たときは
乱れた着物姿で太ももあらわ
(*ノдノ)キャ・・(*ノд゜)ノチラッ
衝撃的でしたが
長い前髪から覗く強い眼差しに
一目惚れ゜+。(*゜ェ゜*)。+゜
原田芳雄さんがどこか格好悪い感じの役でも
そこに味があっていつの間にか好きになってしまいます
映画の感想は
とてもほのぼのさせてくれるストーリー
悲劇の中に喜劇が生まれる
悲しくて可笑しい大人の物語
ハスキーで力強い声は恐ろしい病魔に押しつぶされそうに
なっているようには全く見えませんでした。
しかし他の俳優さんが涙するシーンは演技に見えず
どれも原田さんに対する素の涙に思えて
しかたがありませんでした…。
原田さんが役者の原点を感じた大鹿村の歌舞伎は
実際に300年続いている村の伝統です。
普通の生活の中に「歌舞伎」が根付いている不思議な村
この映画の舞台になった村には温泉がありまして
何度か訪れていましたが
毎回お世話になる宿の専務さんも
この村歌舞伎の役者さんでした。
案内状も頂くのですが都合が合わず
まだ見たことがありませんでした。
原田さんが毎年来られていたそうで
うぉぉぉ…という思いです((“o(>ω<)o”))
芸能人の方はお断りしています
というお宿です
・・・
なぜ?( '艸`*)
高級!?一見さんお断り?
( ̄ー ̄)
その宿は「赤石荘」
という
信州長野の山奥にひっそりと佇む古い旅館です。
“トイレは共同、お部屋に風呂なし、食事は食堂”
という実にこじんまりしたお宿なのですw
あちらこちら改装をチビチビ直している最中…
ま、そういう宿は沖縄離島で鍛えてますから
少々のことでは驚きませんよぉ( ̄ー ̄)ノ
が、温泉は天空の湯殿の絶景だし
お料理もビックリするくらい美味しいんです!!
一泊2食で8550円で頑張っておられます
良い意味で裏切られたって感じで
なんか…こう…とても応援したくなる宿なんです
ちょっとくらい不便だって良いじゃない♪
ボロッちくても良いじゃない♪
そう思えるお宿です(´▽`*)ノ
だからリピータさんが多いんですよね~っ
(。_。(゜ω゜うんうん
役者さんが泊まろうとしても
事務所がOKを出さないということも多々あるようですが
今回は佐藤浩市さんが泊まられたようだと噂も小耳に…
今度専務さんに聞いてみよ~っと♪
夕飯はこんな感じです
熱々の岩魚の塩焼きウマアツウマアツ)))

鹿肉ステーキ美味しぃ(*'ε`*)
なんか…こう料理長さんの心のこもった感じが伝わってきました。
そう!これ凄く美味しかったんですよ!

鹿肉のスモークと山羊チーズ
( ̄ω ̄;)!!っと思いきや
臭みが上手く抜けていて旨みだけが残ったような
絶品でした!
山菜天ぷらも美味しかったなぁ♪
どのお料理もお客さんが食べるタイミングをみて
作りたてをスッと出してくださるんです
朝食もとてもシンプルなのですが

丁寧に作られていて見た目より(ゴメンネ)
凄く美味しいんです。
サラダバーがあって地元の新鮮野菜が食べ放題でした。
ただ一つ…
イナゴ~ッヒィー(>ω<ノ)ノ
これだけは箸を付けられませんでした…
旦那さまはパクリといっちゃってましたけど…
※衝撃画像は止めておきますw
それ以外は朝の光がキラキラ差し込む食堂で
美味しく頂きました(*≧∀≦)ノ
のどかで平和な小さな村が物語の舞台になるの?
と思いましたが
300年続いた村歌舞伎
素人役者の荒削りだけど真剣な
素朴で生き生きした魂に
役者として琴線に触れるものがあったのかも
知れませんね…

心よりご冥福をお祈りいたします。
[video:]
いつもなら耳をふさぎたくなる程
クマゼミの鳴き声がするのに
今年はほぼ鳴くのを聞かない
ミンミン鳴く蝉は程よい「夏」のBGMになるけれど
このクマゼミだけは好きになれない
シワシワ or シメシメ or シネシネ
こう聞えるクマゼミの大合唱は
ジワジワと心が凹んできますしかもボリューム大
今年クマゼミになにがあったのかは知らないけれど
とても嬉しい限りですε-(o´_`o)ほっ
さて、原田芳雄さん主演
「大鹿村騒動記」を観に行ってまいりました。

上映時間よりちょっと早めに行って神戸の街をブラブラ&ランチ

「最後の晩餐はこれが良い」と、いつも言っていますw
・・・
(¬ε¬) フーン
いいもんね
私には原田芳雄がいるも~ん
佐藤浩市もいるも~ん
キヨシローもいるも~ん

お芋スイーツもあるも~ん♪
遺作となったこの映画には佐藤浩市さんも共演してるし
主題歌は「太陽のあたる場所」キヨシローです♪
嬉しいけど…。゜(/□\*)゜。わ~ん

古い映画で初めて原田芳雄さんを見たときは
乱れた着物姿で太ももあらわ
(*ノдノ)キャ・・(*ノд゜)ノチラッ
衝撃的でしたが
長い前髪から覗く強い眼差しに
一目惚れ゜+。(*゜ェ゜*)。+゜
原田芳雄さんがどこか格好悪い感じの役でも
そこに味があっていつの間にか好きになってしまいます
映画の感想は
とてもほのぼのさせてくれるストーリー
悲劇の中に喜劇が生まれる
悲しくて可笑しい大人の物語
ハスキーで力強い声は恐ろしい病魔に押しつぶされそうに
なっているようには全く見えませんでした。
しかし他の俳優さんが涙するシーンは演技に見えず
どれも原田さんに対する素の涙に思えて
しかたがありませんでした…。
原田さんが役者の原点を感じた大鹿村の歌舞伎は
実際に300年続いている村の伝統です。
普通の生活の中に「歌舞伎」が根付いている不思議な村
この映画の舞台になった村には温泉がありまして
何度か訪れていましたが
毎回お世話になる宿の専務さんも
この村歌舞伎の役者さんでした。
案内状も頂くのですが都合が合わず
まだ見たことがありませんでした。
原田さんが毎年来られていたそうで
うぉぉぉ…という思いです((“o(>ω<)o”))
芸能人の方はお断りしています
というお宿です
・・・
なぜ?( '艸`*)
高級!?一見さんお断り?
( ̄ー ̄)
その宿は「赤石荘」

信州長野の山奥にひっそりと佇む古い旅館です。
“トイレは共同、お部屋に風呂なし、食事は食堂”
という実にこじんまりしたお宿なのですw
あちらこちら改装をチビチビ直している最中…
ま、そういう宿は沖縄離島で鍛えてますから
少々のことでは驚きませんよぉ( ̄ー ̄)ノ
が、温泉は天空の湯殿の絶景だし
お料理もビックリするくらい美味しいんです!!
一泊2食で8550円で頑張っておられます
良い意味で裏切られたって感じで
なんか…こう…とても応援したくなる宿なんです
ちょっとくらい不便だって良いじゃない♪
ボロッちくても良いじゃない♪
そう思えるお宿です(´▽`*)ノ
だからリピータさんが多いんですよね~っ
(。_。(゜ω゜うんうん
役者さんが泊まろうとしても
事務所がOKを出さないということも多々あるようですが
今回は佐藤浩市さんが泊まられたようだと噂も小耳に…
今度専務さんに聞いてみよ~っと♪
夕飯はこんな感じです
熱々の岩魚の塩焼きウマアツウマアツ)))

鹿肉ステーキ美味しぃ(*'ε`*)
なんか…こう料理長さんの心のこもった感じが伝わってきました。
そう!これ凄く美味しかったんですよ!

鹿肉のスモークと山羊チーズ
( ̄ω ̄;)!!っと思いきや
臭みが上手く抜けていて旨みだけが残ったような
絶品でした!
山菜天ぷらも美味しかったなぁ♪
どのお料理もお客さんが食べるタイミングをみて
作りたてをスッと出してくださるんです
朝食もとてもシンプルなのですが

丁寧に作られていて見た目より(ゴメンネ)
凄く美味しいんです。
サラダバーがあって地元の新鮮野菜が食べ放題でした。
ただ一つ…
イナゴ~ッヒィー(>ω<ノ)ノ
これだけは箸を付けられませんでした…
旦那さまはパクリといっちゃってましたけど…
※衝撃画像は止めておきますw
それ以外は朝の光がキラキラ差し込む食堂で
美味しく頂きました(*≧∀≦)ノ
のどかで平和な小さな村が物語の舞台になるの?
と思いましたが
300年続いた村歌舞伎
素人役者の荒削りだけど真剣な
素朴で生き生きした魂に
役者として琴線に触れるものがあったのかも
知れませんね…

心よりご冥福をお祈りいたします。
[video:]
この記事のURL|2011-07-23 23:57:31
2011年7月21日(木)
宗谷発進!ヤマトっぽく(・∀・)ノ
旅行日記×93

トップ画像の「白いお台場」は
船の科学館に併設されたショップで販売されていました
石屋製菓は無関係のようで…インスパイヤw?
近畿地方なんとか台風の直撃は免れました~っ
しかし数日間旦那さまもご在宅でご飯、ご飯、またご飯の
嵐の日々でしたw
それでは、宗谷のつづきです今回は
「熱意が物を生み出した編」かな?なんて思います。
宗谷の出航が迫る中で永田氏は
またもや立ちはだかる問題に頭を悩ませていた
(。-`ω´-)。oO(悩)

よくよく考えると日本隊は皆研究者ばかりでヒョロヒョロ~ッ
登山経験者なんてゼロ
ましてや冬山など登ったことなどあるはずもなく
このままでは南極に辿り着けたとしても…
この隊員を引っ張ってくれる頼りになる人間が
絶対に必要だ…
じりりり~ん!!
昔の黒電話ってビクッΣ(ll゜Д゜ノ)ノとしましたw
電話をかけてきたのは
ネパールの山々にも遠征したという
いかにもタフな感じのする男からの
南極行きへの協力の申し出でした。
これは行ける!!
永田氏は期待に胸膨らませその男と
数日後に会う約束を交わします
ワクワク(^▽^*)
約束の日
目の前に現れたのは
(`д´;ノ)ノ
西堀栄三郎53歳
元東芝の技術者
もっと若い人かと…
ガック――(っω`- )――リな永田氏
しかしこの初老を過ぎた西堀氏
優雅な京都弁で冬山について語りだしたとたん
その豊かな経験と知識そして
何ともいえない魅力的な笑顔に
ぐいっと引き込まれてしまいました。



ポポポ(*゜Д゜(*゜Д゜(*゜Д゜*)゜Д゜*)゜Д゜*)ポポッ
そう
この山をこよなく愛する男
登山界で知らない者はいないという
探検のカリスマだったのです
またしても凄い人の登場です!
誰もが一度は耳したことでしょぅ
♪雪よ~岩よ~その先ふふふ~んヾ(-ε-o)ォィォィ
『雪山賛歌』の作詞をしたり
語学堪能でアインシュタインの来日の際に
3日間通訳を務めた博学多才な人物でありました。
この西堀氏が副隊長に任命されました。
西堀氏の南極行きは瞬く間に山男達の噂となりました。
さすがカリスマです
「西堀さんが南極に行くそうだぞ!」
「なんだって!?」
未知の世界への強い憧れ
日本の未来がかかっている重要な任務
生死の補償はなかった…残された家族…
しかし居ても立ってもいられない…
しかし山男達は西堀氏の元に
駆けつけてきました。
こうして熱血永田隊長、カリスマ西堀副隊長は
隊員30人を率いて氷点下20度で強風の吹きつける
北海道網走に入り装備の耐寒テストを始めました。
=昭和31年1月=
網走の強風の前に
あっけなく吹き飛ばされてしまうテント
無線機のバッテリーは直ぐに上がり
発電機もオイルが固まり動かなくなりました


南極で予想する氷点下50度
100mのブリザード…
耐えられるはずもない
厳しい現実が突きつけられます
そのころ宗谷は…

なんと水漏れ(;゜д゜)!!
改造を始めると
オンボロ船体はゆがみだし
ジワジワと水が漏れてきたのです
こっちを直すとあっちからジワ
あの人呼んでもだめかなぁ…
ヾノ・´ω`・)
強い心で宗谷に立ち向かう彼ら
しかし徹夜続き
このままでは…
浅野ドックは横浜中の職人に声をかけました
ジワジワと漏れ続ける水
出航まで3ヶ月
宗谷の危機を救う為に職人達が
続々と集まってきました
「職人魂を見せるんだ!」
一方、網走でテストに失敗した装備の問題で
激務が重なった永田隊長は吐血する程体調を崩していました
(っω`- )…胃が…
そこへある会社の社員が発電機を持って現れました
「これ見て下さい!」
それはオイルが凍る心配の無い『風力発電機』でした
おおぉ(゜Д゜ノ)ノ!!
「価格は…」
「いえ、社長が張り切っているんです!お金は一切いりません」
その会社は浜松から東京に出てきたばかりの小さな
オートバイメーカーでした。
そしてその会社の社長は
本田宗一郎だったのです!
・・カッコ・・インテグラ。+゜(⊃ω・`)゜+。
これからも我が家の車はホンダにしますよぉ!
そしてまたある日、東京通信工業という小さな会社が
寒さでもバッテリーが上がらない
小型受信機を製造して持ってきました
どうぞ( *´▽`)_旦
こちらは後のSONYです。
いやぁ…
大きく成長した会社って本当に物づくりに情熱的ですよね!
日本隊は国民に見守られていたんですね
失敗しても更に優れた物を手にすることが出来ました。
さて、これで装備はいけそう
しかし残された大きな問題がありました
観測隊の命がかかった
「住居」
テントは飛んじゃぅし
あっても中で人間がカッチカチになっちゃいます
「-50度に耐えられて~」
「大工さんが要らなくて~」
「隙間風が入らなくて~」
「持ち運びも出来て~」
「あと3ヶ月で~」
そんなお家が~(♯`Д´)=○)゜з゜)・∵.
隊員がこんな無謀な住宅建設の注文を引提げて
建設会社を回りました。
そして一社だけが
「うちがやろう」と申し出てくれました。
東京タワーを建設した竹中工務店でした。
1mmの隙間でも命取りになってしまう
3ヶ月という短い期間で完璧な建物が必要となります
日本中が注目する中…
責任重大の仕事に担当者も
氷点下50度級の震えです((;゜ェ゜;))ちびりそぅ
釘も使えないという問題は
日本古来の木組みの技術でクリア出来ました
その他諸々の注文は思考錯誤の末に
素人の隊員が激しいブリザードの中でも組み立てられて
持ち運びも可能なパネル式の建物が考案されました。
見事に「想いをかたち」にした建物の完成
これが日本初の「プレハブ住宅」の誕生になりました。
『南極観測隊の住居を造った竹中工務店』
東京ドームも大阪ドームもココの会社です
コソ(*`ノз´)近年は不祥事もあったけどね
そして肝心の船…
あのスクラップ同然のオンボロ船だった宗谷は
「戦艦大和」の匠:牧野茂氏の妥協の無い設計と
浅野ドックと横浜の職人達の手により
ピカピカな鋼鉄の鎧に身を包み
見事に南極観測船へと生まれ変わったではありませんかぁ
と、言いたいところですが実際は
昭和31年10月10日納期に間に合わず引き渡した後に
横浜の職人達が東京の晴海埠頭に通い作業を続け
完成させたそうです。
すっごぃ大変だったんですねぇ…
昭和31年11月8日 東京 晴海埠頭
桟橋は日本の旗を降る1万人の大群衆で埋め尽くされました
がんばれ!!
お父さん元気でね!!いってらっしゃーい!!
( ´∀`)(っω`- ) ゜Д゜)・∀・)´ω`゜)゜´_ゝ`)ノ
大歓声を受ける第一次南極観測隊員53名と
乗組員を合わせて計130名
そして後にあまりにも有名になったタロとジロを含む
カラフト犬22頭
「日本隊に胸を張っていって欲しい!」
ホンダやソニーだけでなく1000社を超える企業が
煮えたぎる熱い思いで南極観測日本隊を応援したのです。

゜*。(*゜ェ゜ノノ゛すごぃ…日本の技術の宝石箱宝船やぁ~っ
宗谷がどれくらい小さい船かっていうとですね
全長:83.3m 100mないんですΣ(=Д=ノ)ノ
出力:4,800馬力(同時代アメリカの砕氷艦
バートンアイランド号は13,000馬力)
大人と子供ほどの差がありました。
永田隊長は力強く群衆に向かい言いました。
「冷静に科学的に合理的に全ての任務を果たしてきます」
この小さな船に日本国民の夢と
積みきれない希望を乗せて宗谷は出航します。
この船出を祝福し無事を祈り
港中の船が汽笛を鳴らし続けました。
日本を旅立った宗谷
ひたすら南を目指すこと50数日…
ごごごぉーーーっん!!!
凄まじい大音響と衝撃が隊員達を襲いました
壮絶な氷との闘いが幕を開けた瞬間でした

南極までの2万キロは、近づけば近づくほど
過酷なものとなりました。
あ、ご飯の支度の時間です(=´▽`)ゞ
誤字脱字があるかもしれませんが
アップしちゃいます
ちょこちょこ直しますがお見逃しくださいませ
続きはまた…
船の科学館に併設されたショップで販売されていました
石屋製菓は無関係のようで…インスパイヤw?
近畿地方なんとか台風の直撃は免れました~っ
しかし数日間旦那さまもご在宅でご飯、ご飯、またご飯の
嵐の日々でしたw
それでは、宗谷のつづきです今回は
「熱意が物を生み出した編」かな?なんて思います。
宗谷の出航が迫る中で永田氏は
またもや立ちはだかる問題に頭を悩ませていた
(。-`ω´-)。oO(悩)

よくよく考えると日本隊は皆研究者ばかりでヒョロヒョロ~ッ

ましてや冬山など登ったことなどあるはずもなく
このままでは南極に辿り着けたとしても…
この隊員を引っ張ってくれる頼りになる人間が
絶対に必要だ…
じりりり~ん!!

電話をかけてきたのは
ネパールの山々にも遠征したという
いかにもタフな感じのする男からの
南極行きへの協力の申し出でした。
これは行ける!!
永田氏は期待に胸膨らませその男と
数日後に会う約束を交わします
ワクワク(^▽^*)
約束の日
目の前に現れたのは
(`д´;ノ)ノ
西堀栄三郎53歳
元東芝の技術者
もっと若い人かと…
ガック――(っω`- )――リな永田氏
しかしこの初老を過ぎた西堀氏
優雅な京都弁で冬山について語りだしたとたん
その豊かな経験と知識そして
何ともいえない魅力的な笑顔に
ぐいっと引き込まれてしまいました。



ポポポ(*゜Д゜(*゜Д゜(*゜Д゜*)゜Д゜*)゜Д゜*)ポポッ
そう
この山をこよなく愛する男
登山界で知らない者はいないという
探検のカリスマだったのです
またしても凄い人の登場です!
誰もが一度は耳したことでしょぅ
♪雪よ~岩よ~その先ふふふ~んヾ(-ε-o)ォィォィ
『雪山賛歌』の作詞をしたり
語学堪能でアインシュタインの来日の際に

この西堀氏が副隊長に任命されました。
西堀氏の南極行きは瞬く間に山男達の噂となりました。
さすがカリスマです
「西堀さんが南極に行くそうだぞ!」
「なんだって!?」
未知の世界への強い憧れ
日本の未来がかかっている重要な任務
生死の補償はなかった…残された家族…
しかし居ても立ってもいられない…
しかし山男達は西堀氏の元に
駆けつけてきました。
こうして熱血永田隊長、カリスマ西堀副隊長は
隊員30人を率いて氷点下20度で強風の吹きつける
北海道網走に入り装備の耐寒テストを始めました。
=昭和31年1月=
網走の強風の前に
あっけなく吹き飛ばされてしまうテント
無線機のバッテリーは直ぐに上がり
発電機もオイルが固まり動かなくなりました


南極で予想する氷点下50度
100mのブリザード…
耐えられるはずもない
厳しい現実が突きつけられます
そのころ宗谷は…

なんと水漏れ(;゜д゜)!!
改造を始めると
オンボロ船体はゆがみだし
ジワジワと水が漏れてきたのです
こっちを直すとあっちからジワ
あの人呼んでもだめかなぁ…

強い心で宗谷に立ち向かう彼ら
しかし徹夜続き
このままでは…
浅野ドックは横浜中の職人に声をかけました
ジワジワと漏れ続ける水
出航まで3ヶ月
宗谷の危機を救う為に職人達が
続々と集まってきました
「職人魂を見せるんだ!」
一方、網走でテストに失敗した装備の問題で
激務が重なった永田隊長は吐血する程体調を崩していました
(っω`- )…胃が…
そこへある会社の社員が発電機を持って現れました
「これ見て下さい!」
それはオイルが凍る心配の無い『風力発電機』でした
おおぉ(゜Д゜ノ)ノ!!
「価格は…」
「いえ、社長が張り切っているんです!お金は一切いりません」
その会社は浜松から東京に出てきたばかりの小さな
オートバイメーカーでした。
そしてその会社の社長は
本田宗一郎だったのです!
・・カッコ・・インテグラ。+゜(⊃ω・`)゜+。
これからも我が家の車はホンダにしますよぉ!
そしてまたある日、東京通信工業という小さな会社が
寒さでもバッテリーが上がらない
小型受信機を製造して持ってきました
どうぞ( *´▽`)_旦
こちらは後のSONYです。
いやぁ…
大きく成長した会社って本当に物づくりに情熱的ですよね!
日本隊は国民に見守られていたんですね
失敗しても更に優れた物を手にすることが出来ました。
さて、これで装備はいけそう
しかし残された大きな問題がありました
観測隊の命がかかった
「住居」
テントは飛んじゃぅし
あっても中で人間がカッチカチになっちゃいます
「-50度に耐えられて~」
「大工さんが要らなくて~」
「隙間風が入らなくて~」
「持ち運びも出来て~」
「あと3ヶ月で~」
そんなお家が~(♯`Д´)=○)゜з゜)・∵.
隊員がこんな無謀な住宅建設の注文を引提げて
建設会社を回りました。
そして一社だけが
「うちがやろう」と申し出てくれました。
東京タワーを建設した竹中工務店でした。
1mmの隙間でも命取りになってしまう
3ヶ月という短い期間で完璧な建物が必要となります
日本中が注目する中…
責任重大の仕事に担当者も
氷点下50度級の震えです((;゜ェ゜;))ちびりそぅ
釘も使えないという問題は
日本古来の木組みの技術でクリア出来ました
その他諸々の注文は思考錯誤の末に
素人の隊員が激しいブリザードの中でも組み立てられて
持ち運びも可能なパネル式の建物が考案されました。
見事に「想いをかたち」にした建物の完成
これが日本初の「プレハブ住宅」の誕生になりました。
『南極観測隊の住居を造った竹中工務店』

東京ドームも大阪ドームもココの会社です
コソ(*`ノз´)近年は不祥事もあったけどね
そして肝心の船…
あのスクラップ同然のオンボロ船だった宗谷は
「戦艦大和」の匠:牧野茂氏の妥協の無い設計と
浅野ドックと横浜の職人達の手により
ピカピカな鋼鉄の鎧に身を包み
見事に南極観測船へと生まれ変わったではありませんかぁ
と、言いたいところですが実際は
昭和31年10月10日納期に間に合わず引き渡した後に
横浜の職人達が東京の晴海埠頭に通い作業を続け
完成させたそうです。
すっごぃ大変だったんですねぇ…
昭和31年11月8日 東京 晴海埠頭
桟橋は日本の旗を降る1万人の大群衆で埋め尽くされました
がんばれ!!
お父さん元気でね!!いってらっしゃーい!!
( ´∀`)(っω`- ) ゜Д゜)・∀・)´ω`゜)゜´_ゝ`)ノ
大歓声を受ける第一次南極観測隊員53名と
乗組員を合わせて計130名
そして後にあまりにも有名になったタロとジロを含む
カラフト犬22頭
「日本隊に胸を張っていって欲しい!」
ホンダやソニーだけでなく1000社を超える企業が
煮えたぎる熱い思いで南極観測日本隊を応援したのです。

゜*。(*゜ェ゜ノノ゛すごぃ…日本の技術の宝石箱宝船やぁ~っ
宗谷がどれくらい小さい船かっていうとですね
全長:83.3m 100mないんですΣ(=Д=ノ)ノ
出力:4,800馬力(同時代アメリカの砕氷艦

大人と子供ほどの差がありました。
永田隊長は力強く群衆に向かい言いました。
「冷静に科学的に合理的に全ての任務を果たしてきます」
この小さな船に日本国民の夢と
積みきれない希望を乗せて宗谷は出航します。
この船出を祝福し無事を祈り
港中の船が汽笛を鳴らし続けました。
日本を旅立った宗谷
ひたすら南を目指すこと50数日…
ごごごぉーーーっん!!!
凄まじい大音響と衝撃が隊員達を襲いました
壮絶な氷との闘いが幕を開けた瞬間でした

南極までの2万キロは、近づけば近づくほど
過酷なものとなりました。
あ、ご飯の支度の時間です(=´▽`)ゞ
誤字脱字があるかもしれませんが
アップしちゃいます
ちょこちょこ直しますがお見逃しくださいませ
続きはまた…
この記事のURL|2011-07-21 18:06:50
2011年7月16日(土)
奇跡の船「宗谷」プロローグ+。(*゜ェ゜*)。+
旅行日記×93

夕飯のアジの開きの小骨が
喉の奥にひっかかりまだ取れません
ご飯を丸呑みするも
( ̄ー ̄)…イガイガチクチク
さっき電話に出たら掠れた変な声がでました(涙)



さて、私の日記はどうも飛び飛びになりがちですが
今日は東京ドタバタ旅行の最終回になります。
前回までの日記夏はカレー!薬膳カレーin中目黒

素敵なホテルで朝食を…と、気取りたかったのですが
残念ながら予算上…素泊まりでw
夜にコンビニで買っておいたレタスハムサンドを
パクパクと口に運びつつ
インスタントのドリップ珈琲で流し込むという
簡単な朝食を取りながらではありましたが
窓からは丹下健三がデザインした東京都庁を
眺められるという贅沢さを味わえました。
大迫力ぅ~~っ!!

ゆっくりはしていられません
さてさて出発~っ!!



この日の目的地は『船の科学館』


私を含めまして女性にはちょっと
理解を深めるのが難しい「船」の世界ですが
ここに展示してある船「宗谷」の奇跡の物語を知り
この船に会いたい!と思ってしまいました。
風のなかのスバル~♪
プロジェクトXX…でも放送されました。
その奇跡の船と言われる由縁を私なりの解釈で書くので
多々解りにくい点や勘違いもあるかも知れませんので
ふわ~っと聞き流して頂ければ幸いです(笑)
~奇跡の船「宗谷」~
時は昭和 敗戦後の日本は沈みきっていました。
そんな中、日本の未来を左右するかも知れない
一通の手紙が東京大学に届きます。
“ブリュッセルで行われる南極への共同観測会議”
参加の意志を問うものでした。
そしてその会議に心を躍らせて参加したのは
永田武氏(当時:41才バカボンのパパと同い年・東京大学理学部教授ノーベル賞候補)
会議に参加したのは10カ国
アメリカを初めとする戦勝国ばかり
( ̄ー ̄)俺達勝ち組だもんね~っ( ̄ー ̄)
未知の大陸である南極で
天体・気象・地球科学・生物学など
様々な分野の可能性を話し合っていたところ
オーストラリアとニュージーランドの代表から
日本への罵声が飛びました。
「なぜニッポンがここにいるのか」
「ニッポンは国際舞台に上がる資格は無い」
うわぁ…日本が敗戦国で貧困真っ只中
予算が無いだろうという考えもあったと思いますが
まだ強く有色人種への差別迫害が強い時代だったことが
伺える発言ですね。
怒るでしかし(*`д´)ノ
コアラのマーチを鷲づかみして
キウィを皮ごとムシャムシャと噛んでやりたくなった私です。
勿論それ以上の屈辱を受けた
(メ`皿´)←熱い日本男児永田武
議長から日本はこの観測に参加できるのかという質問に
「日本は参加できます」←悔しさから出ちゃった言葉
日本に戻ると早速、大蔵省(財務省)を尋ね
南極観測への参加を訴えるのですが
「南極ぅ?そんなものに金は出せない」ヾノ・´ω`・)
こういう姿勢って最近でいえば文部省の
「2位じゃダメなんですか?」
発言の白いスーツの仕分け人の姿が浮かびますね。
この人…クラリオンガールだったよなぁ…
といつも思ってしまう世代ですw
そんな国の門前払いの対応にも
熱血感の溢れる永田氏は諦めずに方々に働きかけます。
しかし敗戦に沈みきった世の中で
人々は飢え心まで冷え切ってしまったのか
大きな夢を語る永田氏を世間は変人扱いしてしまいます。
と、そこに一人の男が現れる
「私も同じ気持ちを持っている日本は南極に行くべきだ」
永田の思いに強く賛同したその人は
朝日新聞の名物編集長である広岡氏でした。
連日新聞で南極へ観測への支援を呼びかけるキャンペーンを打ち上げ
国民の力で日本隊を南極に送ろうと訴え続けると
まもなく全国で募金運動が始まりました。
するとここで一つ目の奇跡が起こります
ちっちゃな手に小銭を握り締めた子供達が
募金に押し寄せてきたのです。
その歩みは10万人を突破
「日本を南極へ!」
小さな子供達のキラキラした希望が
暗闇で燻っていた大人たちの心にも火を灯し
その夢は国民の希望になっていきました。
支援の輪は広がりやがて文部省や運輸省も動き出します
ヾ(-ε-o)…オソイッチュウノ
ついに国が「南極観測閣議決定」を決め国家プロジェクトが動き出します。
゜*。(*゜ェ゜ノノ゛☆パチパチパチ
日本はこうして国際的な共同観測に
参加することが出来たのですが
割り当てられた観測地は
「inaccessible」
いんあくせさぼぅ
アメリカやイギリスが7回も挑戦したけど凍りに阻まれ
失敗した地形も何もわからない大変危険な場所
『接近不可能』というトムクルーズもビックリな
未開の地だったのです。
なんか意地悪くなぃ?…ヾ(-ε-o)
え~参加するんだぁ~っ?
だったらココ行ってみて
無理だと思うけどぉww
みたいな臭いがプンプンです
途中、船の墓場と言われる難所を通り抜け
氷に阻まれ遭難する船も相次いでいる
2万キロの命がけの航海
重大な国家プロジェクト
厚い氷に耐えられる強靭な船が必要になる
しかし日本には予算も時間もなかったのです
中古の船の中で選ばれた船を
メンバーが確認しに港に行きました。
ボロボロ…ガガガ━(ll゜д゜ll)━ン!!唖然
それが「宗谷」と南極観測隊の運命の出会いです。
宗谷は灯台補給船で建造18年船体は
サビサビで甲板は穴だらけ
しかしこのオンボロ船の宗谷
戦時中海軍の物資輸送船として働き
他の船が次々に撃沈されるなかで生き残り
攻撃されても急所は外れ
魚雷に直撃されても不発弾
まさに強運を持つ船だったのです。
プロジェクトはこのボロボロの船
宗谷の強運にかけることにしたのです。
そして宗谷のお直しが始まります。
日本の未来がっかった大改造劇的ビフォーアフターを
担当することになった匠…゜+。(*゜ェ゜*)。+ワクワク
しかしそこに現れたのは
年老いたお爺ちゃんだったのです。( ̄ω ̄;)!?
しかしこのお爺ちゃんは只者ではありませんでした。
な、なんと、日本の命運をかけた世界最大の軍艦
「戦艦大和」の設計をした牧野茂氏だったのです。
しかしまたまた宗谷の前に大きな問題が立ちはだかります
あまりの工期の少なさに大手の造船所が皆尻込みしてしまったのです。
出航まで一年を切りました。
もしこのまま間に合わなければ日本は
(´σ¨_、`)あ~やっぱ無理?
と、見下されてしまいます。
その時、横浜の小さな会社が手をあげました。
船専門の修理工場「浅野ドック」
会社は小さいけれど腕は日本一と評判の会社でした。
「お国の危機だ!どんな無理をしても間に合わせる!」
大きな機材は無く職人の腕だけが頼り
前代未聞の工事が始まります。
工期はあと9ヶ月!
間に合うのか…

あ、こんな時間(o゜ェ゜o)ノ
続きはまた次回に・・・
✲それでは皆さん良い休日をお過ごし下さいませ✲
この記事のURL|2011-07-16 15:51:16