2016年12月26日(月)
庭縁記 2016.12.26
2016年12月24日(土)
庭縁記 2016.12.24 Merry Christmas!

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Love & Peace の庭
フェンスやってます。
夏風くんもやってます。
ヒップス アカイケもやってます。
今日はここまで。
グリメンズ
運んでます。
掻いています。
漕いでいます。
来週も頑張ります。
夏風君。
大地に佇む。
夏風君のお気に入りの風紋
風が創り出すアート。
来週も頑張ります。
物理学と自然科学は世の中を数学の方程式に変えてしまった。
このような方法はずっと前から始まっている。
デカルトは同様のことを文化についてやった。
ジョン・ロックは政治についてやり、アダム・スミスは経済について同じことをやった。
これら西欧の思想家たちは、皆人間存在の精神性の一端を取って、それをコード化し抽象物に置き換えた。
宇宙のすばらしい複雑さと精神性を消し去り、そのかわりに彼らは論理の配列をもってきた。
一、二、三、はい答えです!というわけだ。
この欧米的考え方によれば、メカニカル(機械的)なものこそ完全なものであり、たまたまその時使われている機械的作用にうまく合うものこそ正しいもの、という考え方がまかり通り、どう見てもインチキなものも正しいとされてしまう。
西欧的な思考は、昨日「真理」だったものが今日否定されてしまう。
西欧的思考によって出てくる答えは仮りのもの、当面の間に合わせにすぎない。
西欧人が、かつて宇宙を理解する方法としていた宗教的考え方をこのように地上の考え方に変え、それを「唯物論」といういい方にした。
西欧人には、これは革命なことだと思えるかも知れないが、我々アメリカン・インディアンには、ここにはうんざりするほどくり返されてきたビーイング(今ここに在ること)とゲイニング(より多く、より先への前進)との争いしか見えない。
ビーイングは精神的なことがらであり、ゲイニングは物質的行為だ。
昔からアメリカン・インディアンは、いつでもできる限りよい人間であるようにつとめてきた。
この精神的プロセス(方法・過程)の一部として富を手離すこと、ゲイニングを否定し、そのために持っている良い物を手離すことが、昔も今も行われる。
富はうらやましいどころかむしろその反対なのだ。
西欧にとっては、「体制がうまくいっている」こととは、体制によってより多くの富が手に入ることなのだ。
明らかに、ここには私たちとまったく相反するものの見方がある。
この西欧的な見方はどういう結果をもたらすか。
戦争を見よう。
唯物論メカニズムは敵を「もの」とみなす。
相手を人間ではなく「もの」と見て、殺そうとどうしようとかまわないとする考え方のプロセスである。
この考え方では、今度は地球を破壊することも立派な行為だとされるようになる。
例えば、不動産屋が砂利をとるために地面を破壊することを「開発」だと主張するのであろう。
この考え方では、全宇宙を狂気のおもむくまま「開発」していくことになる。
現実から精神性が抜き去られると、山や湖、それに人々、それらのあるがまま(ビーイング)を眺めて、その美しさすばらしさに打たれることがなくなってしまう。
満足とはより多くのものを手に入れることとなり、そのためには、山は砂利になり、湖は工場用水になっていく。
利潤こそ彼らの倫理なのであるから。
だからウラン開発もこの生産力発展の倫理の中に当然のように組みこまれてくるのだ。
ウラン開発のためには、そこに住む人々が、国家のための犠牲として抹殺されることが正当化される思想がまかり通るのだ。
アメリカン・インディアンには別の道がある。
それは、人間には母なる大地をはずかしめる権利がないことをわきまえた生き方である。
大地(自然)には、西欧的思考ではおよびもつかないいろいろな力があることを知っているやり方だ。
人間はあらゆる縁あるものと調和して生きなければならないこと、もしその調和が破られれば、遅かれ早かれその非調和は消し去られることを知っている道だ。
人間はすべての生きものの中で一番弱い。
あまり弱いから、私たちを生かすため他の生きものたちがそのいのちをくれる程だ。
インディアンはこのことを忘れないようにしている。
だからシカがその肉を私たちに食べさせてくれるとき、私たちはシカに感謝のいのりを捧げる。
西欧人はシカを自分たちより低い生きものだと考える。
合理主義と科学を通じて自分らは神のような存在だと考えているのだ。
だから他のあらゆるものは必然的に低い存在なのだ。
ものみなのそのつながりをこわそうとするとき、母なる大地をはずかしめるとき、こうしたことが永久につづくはずがない。
どんな理論をもってきても、この簡単な事実をかえることはできない。
母なる大地は復しゅうする。
すべての大自然は、そのつながりをこわしたものへ、必ず復しゅうするのだ。
_____「大地の未来のために ラッセル・ミーンズの言葉」

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Love & Peace の庭




グリメンズ



来週も頑張ります。
夏風君。

夏風君のお気に入りの風紋

来週も頑張ります。
物理学と自然科学は世の中を数学の方程式に変えてしまった。
このような方法はずっと前から始まっている。
デカルトは同様のことを文化についてやった。
ジョン・ロックは政治についてやり、アダム・スミスは経済について同じことをやった。
これら西欧の思想家たちは、皆人間存在の精神性の一端を取って、それをコード化し抽象物に置き換えた。
宇宙のすばらしい複雑さと精神性を消し去り、そのかわりに彼らは論理の配列をもってきた。
一、二、三、はい答えです!というわけだ。
この欧米的考え方によれば、メカニカル(機械的)なものこそ完全なものであり、たまたまその時使われている機械的作用にうまく合うものこそ正しいもの、という考え方がまかり通り、どう見てもインチキなものも正しいとされてしまう。
西欧的な思考は、昨日「真理」だったものが今日否定されてしまう。
西欧的思考によって出てくる答えは仮りのもの、当面の間に合わせにすぎない。
西欧人が、かつて宇宙を理解する方法としていた宗教的考え方をこのように地上の考え方に変え、それを「唯物論」といういい方にした。
西欧人には、これは革命なことだと思えるかも知れないが、我々アメリカン・インディアンには、ここにはうんざりするほどくり返されてきたビーイング(今ここに在ること)とゲイニング(より多く、より先への前進)との争いしか見えない。
ビーイングは精神的なことがらであり、ゲイニングは物質的行為だ。
昔からアメリカン・インディアンは、いつでもできる限りよい人間であるようにつとめてきた。
この精神的プロセス(方法・過程)の一部として富を手離すこと、ゲイニングを否定し、そのために持っている良い物を手離すことが、昔も今も行われる。
富はうらやましいどころかむしろその反対なのだ。
西欧にとっては、「体制がうまくいっている」こととは、体制によってより多くの富が手に入ることなのだ。
明らかに、ここには私たちとまったく相反するものの見方がある。
この西欧的な見方はどういう結果をもたらすか。
戦争を見よう。
唯物論メカニズムは敵を「もの」とみなす。
相手を人間ではなく「もの」と見て、殺そうとどうしようとかまわないとする考え方のプロセスである。
この考え方では、今度は地球を破壊することも立派な行為だとされるようになる。
例えば、不動産屋が砂利をとるために地面を破壊することを「開発」だと主張するのであろう。
この考え方では、全宇宙を狂気のおもむくまま「開発」していくことになる。
現実から精神性が抜き去られると、山や湖、それに人々、それらのあるがまま(ビーイング)を眺めて、その美しさすばらしさに打たれることがなくなってしまう。
満足とはより多くのものを手に入れることとなり、そのためには、山は砂利になり、湖は工場用水になっていく。
利潤こそ彼らの倫理なのであるから。
だからウラン開発もこの生産力発展の倫理の中に当然のように組みこまれてくるのだ。
ウラン開発のためには、そこに住む人々が、国家のための犠牲として抹殺されることが正当化される思想がまかり通るのだ。
アメリカン・インディアンには別の道がある。
それは、人間には母なる大地をはずかしめる権利がないことをわきまえた生き方である。
大地(自然)には、西欧的思考ではおよびもつかないいろいろな力があることを知っているやり方だ。
人間はあらゆる縁あるものと調和して生きなければならないこと、もしその調和が破られれば、遅かれ早かれその非調和は消し去られることを知っている道だ。
人間はすべての生きものの中で一番弱い。
あまり弱いから、私たちを生かすため他の生きものたちがそのいのちをくれる程だ。
インディアンはこのことを忘れないようにしている。
だからシカがその肉を私たちに食べさせてくれるとき、私たちはシカに感謝のいのりを捧げる。
西欧人はシカを自分たちより低い生きものだと考える。
合理主義と科学を通じて自分らは神のような存在だと考えているのだ。
だから他のあらゆるものは必然的に低い存在なのだ。
ものみなのそのつながりをこわそうとするとき、母なる大地をはずかしめるとき、こうしたことが永久につづくはずがない。
どんな理論をもってきても、この簡単な事実をかえることはできない。
母なる大地は復しゅうする。
すべての大自然は、そのつながりをこわしたものへ、必ず復しゅうするのだ。
_____「大地の未来のために ラッセル・ミーンズの言葉」

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