2010年3月10日(水)
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛の句です
1945年、昭和20年4月1日。
硫黄島の戦いが終息してまもなく、
アメリカ軍は沖縄本土に上陸しました。
同年6月末までつづいた戦闘で沖縄県民15万人をふくむ
22万人が戦没した。
沖縄戦の大きな特徴は、サイパン、グアム、テアニンにおける戦闘と同様に、
多くの日本民間人が日本軍とともに自決し殺害されたという事実だった。
アメリカ軍は4月1日、
ものすごい大部隊を投じて一気に沖縄にやってくる。
軍艦1317隻、航空母艦に乗っかった飛行機1727機、上陸部隊18万人。
迎え撃つ日本軍は、
牛島満中将が指揮する第32軍6万9千、
大田実少将の海軍陸戦隊8千の、合計7万7千人でした。
仕方なく満17歳から45歳までの沖縄県民男子2万5千人を動員しました。
男子中学校の上級生1600人も加えられます。
さらに女学校の上級生600人も動員されました。
これが「ひめゆり部隊」そのほかです。
沖縄を奪られれば次は本土決戦ですが、
その準備ができていませんから、
とにかく沖縄で頑張ってもらうしかないのです。
できるだけ敵を倒し、時間を稼いでほしいということで、・・・・・中略
・・4月7日、九州坊の岬沖で米軍約380幾の攻撃を受けて大和は壊滅します。
2時間の奮戦の後に大和は沈み、乗組員2740人が戦死、
軽巡洋艦矢矧4隻が沈み、980人余が亡くなりました。
船ばかりではなく、
空からはありったけの飛行機が注ぎ込まれ、
特攻に次ぐ特攻。
当時の隊員がしきりに口にした良寛の句が
散る桜 残る桜も 散る桜
今日生き延びても、明日その身保証されませんでした。
(昭和史 半藤一利)より
今から65年前の3月10日は東京大空襲の日です。
もう一つ
忘れてはいけないと思うことは
同年2月19日の朝から開始され

65年前の3月10日も戦いが続いていた
____________________硫黄島の戦い_______________________
日本軍守備隊長の栗林忠道中将が最後の突撃の命令を下した
3月26日の夜明けまで、
戦闘は一瞬の休止もなく続けられました。
しかし、苦戦むなしく
硫黄島は米軍の手に落ちることとなりました。
訣別電報の最後には、
栗林の辞世
「国の爲重きつとめを果たし得で、
矢弾尽き果て散るぞ悲しき・・・・」
があります。
この硫黄島、
米軍にとっては緊急着陸できる滑走路の重要地点であり
日本にとっては日本本土の制空権が
米軍に握られてしまう重要な島である。

その硫黄島の戦闘が続けられている間に、
米統合参謀本部はすぐに対策を練り上げています。
闘将を引っ張ってきたのです。
とにかく成果が今一つというので、
ヨーロッパ戦線のドイツ空撃で大活躍した、
カーチス・ルメイ中将が
マリアナ方面の指揮官に赴任してきました。
その人がすぐに考えたのが
夜間低空飛行による焼夷弾攻撃でした。
一、
日本の主要都市に対して夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐことにする。
二、
爆撃高度は五千より八千フィートとする。
1フィート30センチとして千五百~二千メートル超です。
かなり低空飛行です。
三、
各機に個々に攻撃を行うこととする。
編成を組むのではなく一機ずつで攻撃する。
こうして
____1945年、
3月10日の東京大空襲が皮切りとなりました。____
特に隅田川の東の下町が徹底的にやられました。

東京大空襲後の深川を巡察する天皇
(右)
1945年、昭和20年4月1日。
硫黄島の戦いが終息してまもなく、
アメリカ軍は沖縄本土に上陸しました。
同年6月末までつづいた戦闘で沖縄県民15万人をふくむ
22万人が戦没した。
沖縄戦の大きな特徴は、サイパン、グアム、テアニンにおける戦闘と同様に、
多くの日本民間人が日本軍とともに自決し殺害されたという事実だった。
アメリカ軍は4月1日、
ものすごい大部隊を投じて一気に沖縄にやってくる。
軍艦1317隻、航空母艦に乗っかった飛行機1727機、上陸部隊18万人。
迎え撃つ日本軍は、
牛島満中将が指揮する第32軍6万9千、
大田実少将の海軍陸戦隊8千の、合計7万7千人でした。
仕方なく満17歳から45歳までの沖縄県民男子2万5千人を動員しました。
男子中学校の上級生1600人も加えられます。
さらに女学校の上級生600人も動員されました。
これが「ひめゆり部隊」そのほかです。
沖縄を奪られれば次は本土決戦ですが、
その準備ができていませんから、
とにかく沖縄で頑張ってもらうしかないのです。
できるだけ敵を倒し、時間を稼いでほしいということで、・・・・・中略
・・4月7日、九州坊の岬沖で米軍約380幾の攻撃を受けて大和は壊滅します。
2時間の奮戦の後に大和は沈み、乗組員2740人が戦死、
軽巡洋艦矢矧4隻が沈み、980人余が亡くなりました。
船ばかりではなく、
空からはありったけの飛行機が注ぎ込まれ、
特攻に次ぐ特攻。
当時の隊員がしきりに口にした良寛の句が
散る桜 残る桜も 散る桜
今日生き延びても、明日その身保証されませんでした。
(昭和史 半藤一利)より
今から65年前の3月10日は東京大空襲の日です。
もう一つ
忘れてはいけないと思うことは
同年2月19日の朝から開始され

65年前の3月10日も戦いが続いていた
____________________硫黄島の戦い_______________________
日本軍守備隊長の栗林忠道中将が最後の突撃の命令を下した
3月26日の夜明けまで、
戦闘は一瞬の休止もなく続けられました。
しかし、苦戦むなしく
硫黄島は米軍の手に落ちることとなりました。
訣別電報の最後には、
栗林の辞世
「国の爲重きつとめを果たし得で、
矢弾尽き果て散るぞ悲しき・・・・」
があります。
この硫黄島、
米軍にとっては緊急着陸できる滑走路の重要地点であり
日本にとっては日本本土の制空権が
米軍に握られてしまう重要な島である。

その硫黄島の戦闘が続けられている間に、
米統合参謀本部はすぐに対策を練り上げています。
闘将を引っ張ってきたのです。
とにかく成果が今一つというので、
ヨーロッパ戦線のドイツ空撃で大活躍した、
カーチス・ルメイ中将が
マリアナ方面の指揮官に赴任してきました。
その人がすぐに考えたのが
夜間低空飛行による焼夷弾攻撃でした。
一、
日本の主要都市に対して夜間の焼夷弾攻撃に主力をそそぐことにする。
二、
爆撃高度は五千より八千フィートとする。
1フィート30センチとして千五百~二千メートル超です。
かなり低空飛行です。
三、
各機に個々に攻撃を行うこととする。
編成を組むのではなく一機ずつで攻撃する。
こうして
____1945年、
3月10日の東京大空襲が皮切りとなりました。____
特に隅田川の東の下町が徹底的にやられました。


(右)
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