庭縁記(0)
2015年4月14日(火)
ボチボチと。

始動ですね。

今年も笑顔で。

春爛漫。
_________________________________
庭さきの森の春
若山牧水
濱へ出る漁師たちの徑に沿うたわたしの庭の垣根は、もと此處が桃畑であつた當時に用ゐられてゐた儘(まま)のを使つてゐる。杭も朽ち横に渡した竹も大方は朽ちはてゝゐるのであるが、其處に生えた篠竹やその間に匐(は)うてゐる蔓草のために辛うじて倒壞を免れてゐる。蔓草も幾種類か匐うてゐる樣であるが、通蔓草(あけび)が最も多い。そしていまその若葉と、若葉の間に垂れて咲いてゐる花とが、まことに美しい。花は初め袋なりにつぼんでゐるが、やがて小さく開く。色は淡い紫である。
門を出てこの垣根に沿ひ十間も行くと、徑は森の間に入る。森の木深いところにもこの通蔓草は茂つてゐる。此處は樹木の背が高いだけ、あけびも高く伸び上つて、とりどりの木の梢からその蔓の先を垂らしてゐる。
森の木はおほかた常盤木である。中でも犬ゆづり葉の木とたぶの木とが多い。たぶの木は玉樟とも犬樟ともいふので樟科の、その葉の匂なども樟に似た木である。犬ゆづり葉は同じくゆづり葉の木そつくりの木で、葉柄の紅いところまで同じである。たゞ葉が本當のゆづり葉より小さい。そのほかには椿、鼠冬青木(ねずみもち)、とべらなどの常盤木が混り、落葉樹には櫨(はぜ)、楢(なら)、楝(あふち)、其他名を知らぬ幾多の雜木がある。
元來此處は潮風を防ぐために昔から設けられた大きな松原で、年を經た黒松が亭々として茂つて居り、その松の下草に右云うた樣ないろいろの木が森を成してゐるのであるが、ともするとわたしは此處の松原である事を忘れ、此等雜木の密生してゐる森林とのみ思ふ事が多いのである。松も多いが、雜木は更に茂つて居る。
此等の雜木を松の下草とするならば、雜木のための下草がまたあるのである。森の深い所ならば虎杖(いたどり)、齒朶(しだ)、少し木の薄い所には茅や芒である。それからこれはわたしは名を知らぬが面白い木がある。幹は眞書(しんがき)の筆の軸ほどで、せいぜい伸びて二尺か二尺五寸、繁々と幾本となく枝を張り、枝には細い刺を持つて居る。小さいなりにみな相當の樹齡を持つて居るらしく、枝ぶりがいかにも寂びてゐる。花は春の末に開き、こまかく白い。實は秋の頃より眞赤く熟れ、次の年の花が咲いてもなほ半は枝に殘つてゐる。南天の實の粒よりも更に小さくまんまるで、こまかい枝のあちこちにいつぱいに熟れてゐるところは誠に綺麗である。今、隨所の木の根がたに見られる。
齒朶はたいへん森を深く見せる。まつたくこの海ばたの森にこれを見出した時はわたしは驚いた。これの茂みに入つて行つて立つてゐるとツイ其處に自分の住居があらうなどとは一寸考へにくい。
今は虎杖(いたどり)の芽の萌ゆるさかりである。無論山の溪間などにあるやうな大きなのは見られないが、それでも親指位ゐのはある。これはこのまゝ喰べるもうまく、一二時間うすい鹽で漬けておくと珍重すべき漬物となる。たべものゝ話のついでゝあるが、わたしは昨日の夕方、一寸森に入つてたらの芽を摘んで來た。味噌あへにして、獨りの晩酌のさかなには恰好であつた。
虎杖を取らうとして森の木蔭に這ひ込んで驚くのは落椿である。椿は花期が永く、いつもなら十二月の末からぼつぼつ咲き出して三月末まで續くのだが、今年は寒さのため咲くのが遲れ、今がまだ盛りといつてよい。この森の或る一部などはいまこの木の落花がそれからそれへと殆んどいちめんに散り敷いてゐる。元來椿の木はその木だけあらはに立つてゐるか、若しくは木立をなしてゐるものである。それが此處の森では他の常盤木に混つて數限りなく立ち續いてゐるのである。他の木を拔いて伸び出でて日向に咲いてゐるもあり、しつとりと木蔭に濕つて咲いてゐるのもある。
椿のほかにいまこの森で目につく花は木苺である。漸う萌え出た柔かな葉のかげに純白色に咲いてゐる。幹がほそくしなやかで、風にゆれながら咲いて居る。
楢(なら)の花、これは葉の芽生えより先に咲かうとするので、時には間違ひ易い。氣をつけて見れば野趣のある花である。
が、何と云つてもこの森には常盤木が多く目につく。花をつける木は少ない。もう少したてば楝の花のむらさきが見られるが、まだ早い。そして、今は雜木の芽の美しい盛りである。
殘念にもわたしはそれら雜木の名を知らない。知らないなりに三種五種とそれぞれに美しいのを數へることは出來る。野葡萄の蔓の節々についた珠のやうな芽の美しさなどはまつたく言葉には現はせない。
これらの芽は二日三日のうちに忽ち伸び開いて、謂はゞ若葉となる。いやもう既にさうなつてゐる。
春、春と思うたのもほんの數日間のことで、昨日今日ではもうそゞろに初夏の感じである。木々の深みに啼いてゐる鶯の聲も漸くこのごろ調つて來たばかりであるに早やもう珍しくなくなつた。(四月六日)
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「若山牧水全集 第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷


今年も笑顔で。

春爛漫。
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庭さきの森の春
若山牧水
濱へ出る漁師たちの徑に沿うたわたしの庭の垣根は、もと此處が桃畑であつた當時に用ゐられてゐた儘(まま)のを使つてゐる。杭も朽ち横に渡した竹も大方は朽ちはてゝゐるのであるが、其處に生えた篠竹やその間に匐(は)うてゐる蔓草のために辛うじて倒壞を免れてゐる。蔓草も幾種類か匐うてゐる樣であるが、通蔓草(あけび)が最も多い。そしていまその若葉と、若葉の間に垂れて咲いてゐる花とが、まことに美しい。花は初め袋なりにつぼんでゐるが、やがて小さく開く。色は淡い紫である。
門を出てこの垣根に沿ひ十間も行くと、徑は森の間に入る。森の木深いところにもこの通蔓草は茂つてゐる。此處は樹木の背が高いだけ、あけびも高く伸び上つて、とりどりの木の梢からその蔓の先を垂らしてゐる。
森の木はおほかた常盤木である。中でも犬ゆづり葉の木とたぶの木とが多い。たぶの木は玉樟とも犬樟ともいふので樟科の、その葉の匂なども樟に似た木である。犬ゆづり葉は同じくゆづり葉の木そつくりの木で、葉柄の紅いところまで同じである。たゞ葉が本當のゆづり葉より小さい。そのほかには椿、鼠冬青木(ねずみもち)、とべらなどの常盤木が混り、落葉樹には櫨(はぜ)、楢(なら)、楝(あふち)、其他名を知らぬ幾多の雜木がある。
元來此處は潮風を防ぐために昔から設けられた大きな松原で、年を經た黒松が亭々として茂つて居り、その松の下草に右云うた樣ないろいろの木が森を成してゐるのであるが、ともするとわたしは此處の松原である事を忘れ、此等雜木の密生してゐる森林とのみ思ふ事が多いのである。松も多いが、雜木は更に茂つて居る。
此等の雜木を松の下草とするならば、雜木のための下草がまたあるのである。森の深い所ならば虎杖(いたどり)、齒朶(しだ)、少し木の薄い所には茅や芒である。それからこれはわたしは名を知らぬが面白い木がある。幹は眞書(しんがき)の筆の軸ほどで、せいぜい伸びて二尺か二尺五寸、繁々と幾本となく枝を張り、枝には細い刺を持つて居る。小さいなりにみな相當の樹齡を持つて居るらしく、枝ぶりがいかにも寂びてゐる。花は春の末に開き、こまかく白い。實は秋の頃より眞赤く熟れ、次の年の花が咲いてもなほ半は枝に殘つてゐる。南天の實の粒よりも更に小さくまんまるで、こまかい枝のあちこちにいつぱいに熟れてゐるところは誠に綺麗である。今、隨所の木の根がたに見られる。
齒朶はたいへん森を深く見せる。まつたくこの海ばたの森にこれを見出した時はわたしは驚いた。これの茂みに入つて行つて立つてゐるとツイ其處に自分の住居があらうなどとは一寸考へにくい。
今は虎杖(いたどり)の芽の萌ゆるさかりである。無論山の溪間などにあるやうな大きなのは見られないが、それでも親指位ゐのはある。これはこのまゝ喰べるもうまく、一二時間うすい鹽で漬けておくと珍重すべき漬物となる。たべものゝ話のついでゝあるが、わたしは昨日の夕方、一寸森に入つてたらの芽を摘んで來た。味噌あへにして、獨りの晩酌のさかなには恰好であつた。
虎杖を取らうとして森の木蔭に這ひ込んで驚くのは落椿である。椿は花期が永く、いつもなら十二月の末からぼつぼつ咲き出して三月末まで續くのだが、今年は寒さのため咲くのが遲れ、今がまだ盛りといつてよい。この森の或る一部などはいまこの木の落花がそれからそれへと殆んどいちめんに散り敷いてゐる。元來椿の木はその木だけあらはに立つてゐるか、若しくは木立をなしてゐるものである。それが此處の森では他の常盤木に混つて數限りなく立ち續いてゐるのである。他の木を拔いて伸び出でて日向に咲いてゐるもあり、しつとりと木蔭に濕つて咲いてゐるのもある。
椿のほかにいまこの森で目につく花は木苺である。漸う萌え出た柔かな葉のかげに純白色に咲いてゐる。幹がほそくしなやかで、風にゆれながら咲いて居る。
楢(なら)の花、これは葉の芽生えより先に咲かうとするので、時には間違ひ易い。氣をつけて見れば野趣のある花である。
が、何と云つてもこの森には常盤木が多く目につく。花をつける木は少ない。もう少したてば楝の花のむらさきが見られるが、まだ早い。そして、今は雜木の芽の美しい盛りである。
殘念にもわたしはそれら雜木の名を知らない。知らないなりに三種五種とそれぞれに美しいのを數へることは出來る。野葡萄の蔓の節々についた珠のやうな芽の美しさなどはまつたく言葉には現はせない。
これらの芽は二日三日のうちに忽ち伸び開いて、謂はゞ若葉となる。いやもう既にさうなつてゐる。
春、春と思うたのもほんの數日間のことで、昨日今日ではもうそゞろに初夏の感じである。木々の深みに啼いてゐる鶯の聲も漸くこのごろ調つて來たばかりであるに早やもう珍しくなくなつた。(四月六日)
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「若山牧水全集 第八巻」雄鶏社
1958(昭和33)年9月30日初版1刷

2015年3月24日(火)
庭の追憶

今日もまた冬らしい仕事。

午後3時半、横殴り雪で作業中止。
「あ~ソレソレ!」
郷里の家を貸してあるT氏からはがきが来た。平生あまり文通をしていないこの人から珍しい書信なので、どんな用かと思って読んでみると、
郷里の画家の藤田という人が、筆者の旧宅すなわち現在T氏の住んでいる屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が他の一点とともに目下上野で開催中の国展に出品されているはずだから、暇があったら一度見に行ったらどうか。
という親切な知らせであった。さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。
「秋庭」という題で相当な大幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。
この石は、もとどこかの石橋に使ってあったものを父が掘り出して来て、そうして、この位置にすえたものである。それは自分が物ごころついてから後のことであった。この石の中ほどにたしか少しくぼんだところがあって、それによく雨水や打ち水がたまって空の光を照り返していたような記憶がある。しかし、ことによるとそれは、この石の隣にある片麻岩の飛び石だったかもしれない。それほどにもう自分の記憶がうすれているのはわびしいことである。
この絵でも、この長方形の飛び石の上に盆栽が一つと水盤が一つと並べておいてあるのがすっかり昔のままであるような気がするが、しかしこの盆栽も水盤も昔のものがそのまま残っているはずはない。それだのに不思議な錯覚でそれが二十年も昔と寸分ちがわないような気がするのである。
この飛び石のすぐわきに、もとは細長い楠の木が一本あった。それはどこかの山から取って来た熊笹だか藪柑子(やぶこうじ)だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺になり、四五尺になり、後にはとうとう座敷のひさしよりも高くなってしまった。庭の平坦な部分のまん中にそれが旗ざおのように立っているのがどうも少し唐突なように思われたが、しかし植物をまるで動物と同じように思って愛護した父は、それを切ることはもちろん移植しようともしなかったのであった。しかし父の死後に家族全部が東京へ引き移り、旧宅を人に貸すようになってからいつのまにかこの楠は切られてしまった。それでこの「秋庭」の画面にはそれが見えないのは当然である。しかしそれが妙に物足りなくもさびしくも思われるのであった。
次に目についたのは画面の右のはずれにある石燈籠である。夏の夕方には、きまって打ち水のあまりがこの石燈籠の笠に注ぎかけられた。石にさびをつけるためだという話であった。それからまた低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽かっぱを着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐(あおぎり)を細引きで縛り合わせた。それは木が揺れてこの石燈籠を倒すのを恐れたからである。この梧桐は画面の外にあるか、それとももうとうの昔になくなっているかもしれない。
画面の左上のほうに枝の曲がりくねった闊葉樹(かつようじゅ)がある。この枝ぶりを見ていると古い記憶がはっきりとよみがえって来て、それが槲(かしわ)の木だとわかる。ちょうど今ごろ五月の節句のかしわ餅をつくるのにこの葉を採って来てそうしてきれいに洗い上げたのを笊(ざる)にいっぱい入れ、それを一枚一枚取っては餅を包んだことをかなりリアルに思い出すことができる。餡入の餅のほかにいろいろの形をした素焼きの型に詰め込んだ米の粉のペーストをやはり槲の葉にのせて、それをふかしたのの上にくちなしを溶かした黄絵の具で染めたものである。
正面の築山(つきやま)の頂上には自分の幼少のころは丹波栗の大木があったが、自分の生長するにつれて反比例にこの木は老衰し枯死して行った。この絵で見ると築山の植え込みではつつじだけ昔のがそのまま残っているらしい。しかし絵の主題になっている紅葉は自分にとってはむしろ非常に珍しいものである。
たぶん自分の中学時代、それもよほど後のほうかと思うころに、父が東京の友人に頼んで「大杯」という種類の楓の苗木をたくさんに取り寄せ、それを邸内のあちこちに植えつけた。自分が高等学校入学とともに郷里を離れ、そうして夏休みに帰省して見るたびに、目立ってそれが大きくなっているのであった。しかし肝心のもみじ時にはいつでも国にいないので、ついぞ一度もその霜に飽きた盛りの色を見る機会はなかったのである。大学の二年から三年にあがった夏休みの帰省中に病を得て一年間休学したが、その期間にもずっと須崎の浜へ転地していたために紅葉の盛りは見そこなった。冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴(てんてつ)しているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というものを見たことがなかったのである。それをかれこれ三十年後の今日思いもかけぬ東京の上野うえのの美術館の壁面にかかった額縁の中に見いだしたわけである。
生まれる前に別れたわが子に三十年後にはじめてめぐり会った人があったとしたら、どんな心持ちがするものか、それは想像はできないが、それといくらか似たものではないかと思われるような不思議な心持ちをいだいてこの絵の前に立ち尽くすのであった。
次男が生まれて四十日目に西洋へ留学に出かけ、二年半の後に帰省したときのことである。船が桟橋さんばしへ着いたら家族や親類がおおぜい迎えに来ていた。姉が見知らぬ子供をおぶっているから、これはだれかと聞いたらみんなが笑いだした。それが紛れもない自分の子供であったのである。それがそうだと聞かされると同時に三年前の赤ん坊の顔と東京の原町の生活が実に電光のように脳裏にひらめいたのであった。
この絵に対する今の自分の心持ちがやはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔のわが家の庭が次第次第に、狂っていたレンズの焦点の合ってくるように歴然と眼前に出現してくるのである。
このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。
ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿の、今はとくの昔になき妻の事どもである。
飛び石のそばに突兀(とっこつ)としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。
国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまごい)をした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像ナハビルトのようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへおりて行くのであった。
(昭和九年六月、心境)
「寺田寅彦随筆集 第四巻」
小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
ご自身の幼き頃の「庭」の想い出を思い出すきっかけになればと思い。

>>作品事例集[172物件]

午後3時半、横殴り雪で作業中止。

「庭の追憶」
寺田寅彦
郷里の家を貸してあるT氏からはがきが来た。平生あまり文通をしていないこの人から珍しい書信なので、どんな用かと思って読んでみると、
郷里の画家の藤田という人が、筆者の旧宅すなわち現在T氏の住んでいる屋敷の庭の紅葉を写生した油絵が他の一点とともに目下上野で開催中の国展に出品されているはずだから、暇があったら一度見に行ったらどうか。
という親切な知らせであった。さっそく出かけて行って見たら、たいして捜すまでもなくすぐに第二室でその絵に出くわした。これだとわかった時にはちょっと不思議な気がした。それはたとえば何十年も会わなかった少年時代の友だちにでも引き合わされるようなものであった。
「秋庭」という題で相当な大幅である。ほとんど一面に朱と黄の色彩が横溢して見るもまぶしいくらいなので、一見しただけではすぐにこれが自分の昔なじみの庭だということがのみ込めなかった。しかし、少し見ているうちに、まず一番に目についたのは、画面の中央の下方にある一枚の長方形の飛び石であった。
この石は、もとどこかの石橋に使ってあったものを父が掘り出して来て、そうして、この位置にすえたものである。それは自分が物ごころついてから後のことであった。この石の中ほどにたしか少しくぼんだところがあって、それによく雨水や打ち水がたまって空の光を照り返していたような記憶がある。しかし、ことによるとそれは、この石の隣にある片麻岩の飛び石だったかもしれない。それほどにもう自分の記憶がうすれているのはわびしいことである。
この絵でも、この長方形の飛び石の上に盆栽が一つと水盤が一つと並べておいてあるのがすっかり昔のままであるような気がするが、しかしこの盆栽も水盤も昔のものがそのまま残っているはずはない。それだのに不思議な錯覚でそれが二十年も昔と寸分ちがわないような気がするのである。
この飛び石のすぐわきに、もとは細長い楠の木が一本あった。それはどこかの山から取って来た熊笹だか藪柑子(やぶこうじ)だかといっしょに偶然くっついて運ばれて来た小さな芽ばえがだんだんに自然に生長したものである。はじめはほんの一二寸であったものが、一二尺になり、四五尺になり、後にはとうとう座敷のひさしよりも高くなってしまった。庭の平坦な部分のまん中にそれが旗ざおのように立っているのがどうも少し唐突なように思われたが、しかし植物をまるで動物と同じように思って愛護した父は、それを切ることはもちろん移植しようともしなかったのであった。しかし父の死後に家族全部が東京へ引き移り、旧宅を人に貸すようになってからいつのまにかこの楠は切られてしまった。それでこの「秋庭」の画面にはそれが見えないのは当然である。しかしそれが妙に物足りなくもさびしくも思われるのであった。
次に目についたのは画面の右のはずれにある石燈籠である。夏の夕方には、きまって打ち水のあまりがこの石燈籠の笠に注ぎかけられた。石にさびをつけるためだという話であった。それからまた低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽かっぱを着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐(あおぎり)を細引きで縛り合わせた。それは木が揺れてこの石燈籠を倒すのを恐れたからである。この梧桐は画面の外にあるか、それとももうとうの昔になくなっているかもしれない。
画面の左上のほうに枝の曲がりくねった闊葉樹(かつようじゅ)がある。この枝ぶりを見ていると古い記憶がはっきりとよみがえって来て、それが槲(かしわ)の木だとわかる。ちょうど今ごろ五月の節句のかしわ餅をつくるのにこの葉を採って来てそうしてきれいに洗い上げたのを笊(ざる)にいっぱい入れ、それを一枚一枚取っては餅を包んだことをかなりリアルに思い出すことができる。餡入の餅のほかにいろいろの形をした素焼きの型に詰め込んだ米の粉のペーストをやはり槲の葉にのせて、それをふかしたのの上にくちなしを溶かした黄絵の具で染めたものである。
正面の築山(つきやま)の頂上には自分の幼少のころは丹波栗の大木があったが、自分の生長するにつれて反比例にこの木は老衰し枯死して行った。この絵で見ると築山の植え込みではつつじだけ昔のがそのまま残っているらしい。しかし絵の主題になっている紅葉は自分にとってはむしろ非常に珍しいものである。
たぶん自分の中学時代、それもよほど後のほうかと思うころに、父が東京の友人に頼んで「大杯」という種類の楓の苗木をたくさんに取り寄せ、それを邸内のあちこちに植えつけた。自分が高等学校入学とともに郷里を離れ、そうして夏休みに帰省して見るたびに、目立ってそれが大きくなっているのであった。しかし肝心のもみじ時にはいつでも国にいないので、ついぞ一度もその霜に飽きた盛りの色を見る機会はなかったのである。大学の二年から三年にあがった夏休みの帰省中に病を得て一年間休学したが、その期間にもずっと須崎の浜へ転地していたために紅葉の盛りは見そこなった。冬初めに偶然ちょっと帰宅したときに、もうほとんど散ってしまったあとに、わずかに散り残って暗紅色に縮み上がった紅葉が、庭の木立ちを点綴(てんてつ)しているのを見て、それでもやっぱり美しいと思ったことがあった。それっきり、ついぞ一度も自分の庭の紅葉というものを見たことがなかったのである。それをかれこれ三十年後の今日思いもかけぬ東京の上野うえのの美術館の壁面にかかった額縁の中に見いだしたわけである。
生まれる前に別れたわが子に三十年後にはじめてめぐり会った人があったとしたら、どんな心持ちがするものか、それは想像はできないが、それといくらか似たものではないかと思われるような不思議な心持ちをいだいてこの絵の前に立ち尽くすのであった。
次男が生まれて四十日目に西洋へ留学に出かけ、二年半の後に帰省したときのことである。船が桟橋さんばしへ着いたら家族や親類がおおぜい迎えに来ていた。姉が見知らぬ子供をおぶっているから、これはだれかと聞いたらみんなが笑いだした。それが紛れもない自分の子供であったのである。それがそうだと聞かされると同時に三年前の赤ん坊の顔と東京の原町の生活が実に電光のように脳裏にひらめいたのであった。
この絵に対する今の自分の心持ちがやはりいくらかこれに似ている。はじめ見た瞬間にはアイデンチファイすることのできなかった昔のわが家の庭が次第次第に、狂っていたレンズの焦点の合ってくるように歴然と眼前に出現してくるのである。
このただ一枚の飛び石の面にだけでも、ほとんど数え切れない喜怒哀楽さまざまの追憶の場面を映し出すことができる。夏休みに帰省している間は毎晩のように座敷の縁側に腰をかけて、蒸し暑い夕なぎの夜の茂みから襲ってくる蚊を団扇で追いながら、両親を相手にいろいろの話をした。そのときにいつも目の前の夕やみの庭のまん中に薄白く見えていたのがこの長方形の花崗岩の飛び石であった。
ことにありあり思い出されるのは同じ縁側に黙って腰をかけていた、当時はまだうら若い浴衣姿の、今はとくの昔になき妻の事どもである。
飛び石のそばに突兀(とっこつ)としてそびえた楠の木のこずえに雨気を帯びた大きな星が一ついつもいつもかかっていたような気がするが、それも全くもう夢のような記憶である。そのころのそうした記憶と切っても切れないように結びついているわが父も母も妻も下女も下男も、みんなもう、一人もこの世には残っていないのである。
国展の会場をざっとひと回りして帰りに、もう一ぺんこの「秋庭」の絵の前に立って「若き日の追憶」に暇請(いとまごい)をした。会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみがえって来るのである。しかし自分が死ねば自分の過去も死ぬと同時に全世界の若葉も紅葉も、もう自分には帰って来ない。それでもまだしばらくの間は生き残った肉親の人々の追憶の中にかすかな残像ナハビルトのようになって明滅するかもしれない。死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術は半分以上なくなるかもしれない。自分にしても恥さらしの随筆などは書かないかもしれない。
こんなよしなしごとを考えながら、ぶらぶらと山下のほうへおりて行くのであった。
(昭和九年六月、心境)
「寺田寅彦随筆集 第四巻」
小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
ご自身の幼き頃の「庭」の想い出を思い出すきっかけになればと思い。

>>作品事例集[172物件]
2015年3月23日(月)
女性と庭


今日も冬っぽい仕事。
春はもうすぐそこに。

「女性と庭」
岡本かの子
出入りの植木屋さんが廻つて来て、手が明いてますから仕事をさして欲しいと言ふ。頼む。自分の方の手都合によつて随時仕事が需められる。職業ではのん気な方の職業でもあり、また、エキスパートの強味でもある。手入れ時と見え、まづ松の梢の葉が整理される。松の花の出の用意でもある。松の花といふもの花らしくもなく、さればとて芽の軸ばかりでもない。そこに日本独特のしぶい「詑(わ)び」の美がある。イタリー名物の傘松は実を採られ防風林に使はれる。何の求むるところなく愛される東洋の庭の松は幸福である。手入れが済んで、どうやら形がつく。
江戸の都会詩人、其角(きかく)の句に
この松にかへす風あり庭すずみ
その季節もあとひと月後か。
池の水が浸洩(しも)るやうですから繕(なほ)しながら少し模様を更へて見ませうと植木屋さんは言ふ。頼む。家庭に属するもの塵一つ見飽きるといつては済まないが、沈滞の空気にところを得させぬためにときどき時宜の模様更へは必要である。近頃の世情の如きか。
植木屋さんなかなかよく働く。「もとは植木屋といつたら、隠居の遊び相手に煙草をふかしてりやよかつたんですが、どうして此頃はお客さんの要求からして実質本位です」。そして年期奉公の外に園芸学校へも入らなければならないし京都へも留学するといふ。生活文化の激甚この有閑といはれる職業にまで及んだのか。
午前、午後、二度のお茶うけ、昼どきの箸合せ、なにかと気を配らねばならない雇傭の習慣は面倒旧式と言へばそれまでだが「してあげる」「して貰ふ」といふ何か彼此の間にスムーズなものを生む。
池に使ふ不動石、礼拝石、平浜――それは小柄のものに過ぎないが、植木屋さんは「学校の教養」と「留学」の造詣をかたむけて新古典風に造つて呉れた。日本の造庭術は、元来が理想の天地の模型である。
籠り勝ちな家庭の女性の気宇を闊(ひろ)くしよう。
「岡本かの子全集 第十二巻」冬樹社
1976(昭和51)年9月
>>作品事例集[172物件]
.
2015年3月19日(木)
庭をつくる人・3



ふゆっぽい仕事。 春はもうすぐ。

「庭をつくる人」
室生犀星
竹の庭
庭は春さきの冬がすっかり終りかけないころがよい。冬のさむさが隅々に残り漂うているに拘らず、春さきの景色もむらさきぐんだ影になり、土はしめりを帯びている。その土や苔のしめり工合に得も言われぬ行届いた叮嚀さがこめられて、旭のあたり加減の匂わしさは類もない新しさである。何となく植えてみたいのぞみを抱く、木々の間を覗いてあるくと、枝を透いて匂うてくるものを感じる。つまり庭全体の空気が不思議な人情的なるものにつつまれて囁いてくるようである。穏かに草の芽のあたまに当る旭のいろに天が下のめぐわしさを感じるのである。季節の故郷である。
厳格と寒威との間に立った石燈籠がやっと柔和に見え、ひと雨のあとの濡れ方もまた春の色であった。灯ともし石のきわに芽が生えているのを見ると、わたくしは曾て或る茶人の庭にあった利休形の古い燈籠を思い出した。庭のまん中に据え、松の下に蔓をからませた姿は、あっさりと好ましかった。松一本の好みもよかった。茶室にいたわたくしは主人が立ったあとで、釜の鳴るのを聴きながら眺めていると、燈籠の落着き方は能く釜の音に調和していて、わたくしをして茶室で眺めるものは茶室との結びを持っていると思わせた。燈籠は温順の相であった。胴の細い深いさびをこもらした利休形は、一面あたたかい心もちがあった。前後を通じてのあの位しずかに燈籠をながめたことがなかった。頭の奥の方にいまも閑やかに見えるような気がする。
遠州形は笠がふっくりと高盛りになり、荒いつくりで好きである。何となくたたずみ方に奥行があるが、宗和形は蕭条として枯木戸のある四方見通しの、庭に向くと思うた。わたくしは雑木四五本の立った下へ飛石を打ち、そして又雑木二三本の奥に宗和形を眺めたいと思うている。有楽形、宗易形、珠光形、春日、雪見などあるが、わたくしの好みとしてはせいの高くない肉の相応にある茶庭燈籠が一本あればよい、いや、もう一本ほしいものである。若し心に叶うたのに出会せば、庭中人有人不語の境を読みたいものである。燈籠は、眼をもっている。庭の四方をぐいぐいと緊めつけ纏めているものである。若し燈籠が詰らない悪作であったら庭の品を落してしまうものである。わたくしは曾て面を覆うような燈籠を崩して、台石と中台とを飛石につかうて見たが、春日であったために鳥渡ちょっとよい飛石につかえた。蒼みもあり燈籠らしい由緒をも持っているせいか、仲々よかった。一たい燈籠の居所は木のかげに頭だけ見えるくらいがいいものである。燈籠を繁りの前に置くのは、これ見よがしでよくない。若し繁りの前へ出すなら庭のただ中からやや隅へかけてあどけなくぽつんと置けば、却って無邪気に見えるが、そういう場合よほど古さや形のよい、せいのつまった燈籠でなければならぬ。燈籠が木と木との隙から木の葉の蒼みより最もっと深い蒼みで、すれすれに姿をかくしているのは清幽限り無きものである。いまどき刻みの墓石のようなものを樹てているのを見ると、嫌悪の情さえ起らないでぞっとするくらいである。燈籠一本に庭の大部分の魅力をもたせなければならぬが、といっても他を疎んじるわけではない。何とも言えない磨きのある調度、行荘の清純、あどけなく閑かにそして眼立たぬように作るのが奥の手であろう、質素の庭ひろがりで行くのである。一瞥荒く二瞥やや細く三瞥驚嘆する程の細微を尽すべきである。見るほど飽かない謂いである。一草に心かたむけてあるを見るときに、あるじの愛の深いことを感じる。大した築山や池をほめるのではない。あるじの愛さえ庭に行き亘って居ればわたくしの望は足りるのである。曾て前田という本郷住人の庭園を見たとき銅製の鶴が二羽、からの川の中に置かれてあるのを見て、わたくしは眼を汚された思いがした。或は唐獅子を置き、大砲をさえ飾ることを思うと、わたくしは情無くなるばかりである。好みは人間をつくるものである。
これは曾て『サンデー毎日』に書いたことがあるが、或る客があって庭をつくろうと思うが、千円くらいで一寸としたものが作れるだろうかと言ったから、わたくしは発句でも書くように、一枚の半紙に無駄書をして手渡したことがあった。
竹 (矢竹或いはしの竹) 五百本
飛石 (拍子木二本をふくむ) 五十枚
すて石 三つ
茶庭燈籠(利休がた) 一本
つくばい(一つは大きく別ののは小さく) 二鉢
山土 十車
そして植木屋手間賃五十人分二百円は例外である。しの竹、七十円。飛石(くらま一枚五円見当。)二百五十円。すて石、二百円。茶庭燈籠、三百円見当。(上物はあるいはむずかしい。)つくばい、二鉢、百円。その他山土十車代等千円である。
これだけで作り上げたものは十年あとには苔がついて、竹も根を張り相応の庭になるであろうが、ただ、面倒なのは竹は二タ月に一度ずつ枯葉や蟻、毛虫のつかぬ様の手入れ、及び刈込、筍仕立、(それは毎年古竹を伐り新竹を立たすこと。)皮剥ぎの手入れが肝要である。飛石の高金は飛石がわるくては庭が畳めないからで、燈籠の三百円は捜したら適当なのがあるかもしれぬ。また無いかも知れぬ。一本あればいいのである。
つくばいは手頃なのが一つでいいのであるが、わたくしの癖として二鉢ほしいのである。役石前石はもちろん買入れるのだが、これの百円は見くびりすぎているようだ。一つは竹の奥に一つは縁側から七歩くらいの居どころにする。山土の十車は苔を生やすためである。十車では足りないかも知れぬ。以上は別に深い意味のある庭ではなく、又茶がかった庭でもない。唯、このような庭もあるくらいに考えて貰えばいいのである。下草は一切植えない。歯朶一枚でもこの庭にはおことわりである。一体、庭というものは朝夕二回の掃除と打水とが必要のあるものである。
竹の植方では東南西に株を乱して植えて置く。這い出しの筍を見とどけた植え方をしなければならぬ。東の方では朝の内のかげを眺め、南西では終日その猗々たるかげを苔の上に撮らねばならぬ。茂りは尖端に揉みついた風情よりも、折々枯葉を取り葉と葉との間をすかし、空の色を伺い見るべきである。竹は画くがごとく伐るべしとはわたくしの信条の一つであるが、手入れ次第で美しく見えるものであるから怠けものには竹はやめた方がいい。棄石は大体において三方へ平凡に置く、北へ面した方へだけ二つ片よせなければならぬ。これは隣家の関係もあり一度地勢を見た上でなければ分らない。
この庭の仕上りは一つには竹の葉ずれの音をきくためと、いくらか幽寂閑雅の心を遣るためとである。燈籠というものはその庭を一と目眺めたときに、既もうその位置が宿命的に定っているほど動かないところにあるものである。庭は四方の均整を引締めるために、眼光紙背に徹する底のまなこをもたなければならない。燈籠の位置で庭が本定(ほんぎまり)になるのである。
「庭を造る人」改造社
1927(昭和2)年
「料理をつくる人」
カービーやす
プロの料理人が事務所に来て料理をつくってくれた。

当たり前だが、超うまかった。

でも、彼は真っ直ぐに庭を目指す。
またよろしく。
とフジヤマも申しておりました。
2015年3月9日(月)
庭をつくる人・2


グリメンズ フジヤマ

「庭をつくる人」・2
室生犀星
石について
わたくしは世に石ほど憂鬱なものはないと思うている。ああいう寂しいものを何故人間は愛めで慕うのであるか。
蕭条と石に日の入る枯野かな
蕪村
こがらしや畠の小石目に見ゆる
同
木枯や小石のこける板ひさし
同
石が寂しい姿と色とを持っているから人間は好きになれるのだが、反対のものであったら誰も石好きにならないであろう。その底を掻きさぐって見たら石というものは飽かないものであるからである。さびは深く心は静かである。人間はその成長の途中で石を最初におもちゃにするようであるが、また最後におもちゃにするのも石のようである。俳句が文韻の道の初歩のものであるとしたら、老いてまた最後の文事の友でなければならぬ。わたくしは幼児川原に遊んで遠くに石を投げて見て、何秒かの後に始めて戞然たる石が石を相打つを聞き、世の幽寂の最初に触手した感じを抱いたものであった。
芽の吹くころになると踏石や捨石が冬がれの中から身を起し、呼吸をしてくるように思えた。すくなくとも何かの鋭さを現わしたが、それは木の芽草の芽が浮き出させてくるのかも知れない。浅い芽の色が蒼古たる石を上と下とから形を描き合せるのかも知れぬ。
石は絶えず濡れざるべからずというのは、春早いころがその鋭さを余計に感じる時であるからであろう。水の溜まる石、溜まるほどもない微かな中くぼみのある石、そして打水でぬれた石は野卑でなまなましく、朝の旭のとどかぬ間の石の面の落着きの深さは譬えようもなく奥ゆかしい。或いは夜来の雨じめりでぬれたのが、空明りを慕うているさまは恋のように仄かなものである。それが飛石であるときは踏みかねる心をもつ。朝の間は石の心も静まっていると見えるからである。わたくしはある朝、蒼黒い棄石のきわに一本の蕗の薹を眺め、凝然と驚いて瞠って眺めた。それは一本のかんざしを持った何か巨大な生きものの、微笑み跼まるのに眼がふれたからであった。石は庭ぬしの悲しい時は悲しそうな表情をして見せ、機嫌よいときはかれも闊達で快然としていた。一朝わが思いならざるときその眼を落すのも、石床蒼古の上に停まるのであったが、それよりも先きにかれは綿々の情に耐えざるの風姿があった。わたくさはそういう思いでかれと相抱くことを屡々感じた。相阿弥が山紫水明の間に心を悲しませ、親兄弟よりも木石交契を慕うたと自ら言ったのも解るような気がする。すくなくとも石面一顰の表情にこころづいたときには、その人の愛は行き着いたのであろう。或る子供が庭へ出て草の芽のあたまを撫でながらいたが、その子供のしたことはわたくしの石面をなでると同じいとしさのあまりである。
ほろ/\と山吹散るか滝の音
芭蕉
待ちかねて隣の梅を折りに行く
同
王庭吉の水仙図のごときもその水仙のくびの弱々しさ、垂れた一枚の葉の重さ、それで一気に伸びずにしずしずと伸びて咲いた水仙、その心はやはり我々と同じい辿りをしているものである。曹雲西の石岸古松をつんざくもの、九龍山人の枯木水辺をえがいた隠居図、かれらの持ち合せた心はわたくしどもの網の目のような心に、糸を振り合せてくれ、ほつれぬように結んで来てくれるのである。かれらはみな叩けば音をもっていた。
石は二ツ接つぎ、三ツ組、五ツ組とか言い秘伝のようなものがあるそうであるが、わたくしは勝手に組めばいいと思っている。しかし物には釣合というものがある。その釣合以上の何ものかがわたくしたちを打ってくれればいいのである。一つ置いた石が物足りなさそうにしている態が見え、友ほしそうである。或いは寂寞に耐えない風姿をしている。それを見抜いてやることも我々の心である。何かかれらにも感情があり、一つきりで立てないときにはも一つ石を接ぐのもいいだろう。そして二つ接いでもなお母石が寂しがったら我々はどうしたらいいだろう。五つを接がねばならないが併しそのために調和をやぶったらどうしたらいいか。わたくしはそういう時に無理にもと通り母石ひとりを立たせて置き、さびしがらせて置くのである。
沓抜、飛石の打ち方はくろうとでなければ、これこそ落着かぬものである。利休がある庭へ招かれた時に茶事の後に黙ってかえったが、あとで石の中に一枚だけ入れかえてあったことを見抜いたそうであった。ともあれ、飛石は丁々と畳んで行くいきで、庭の呼吸をつがせるようなものである。これの打ち方で庭ぬしの頭のほどが窺い知られるものである。飛石は何処まで打って行っても止まることを知らず、もう一枚、もう一枚というふうに先きを急ぐものであるから、止めをよほど抉り利かして置かなければならぬ。わたくしは飛石は庭を鎧うているものであることを熟々感じている。
或る時庭の片隅の梅の切株に、霊芝が五本生え、月を経てその菌は笠をひろげた。霊芝というものは支那あたりに珍重するばかりでなく、床の置物にするくらい稀有の目出度いものである。滅多に生えないものらしい。形は茎も笠も菌であるが質は固く陰干しにするとそのままの形を残すものだ。水を打って見ると朱の色に冴えて見えた。その生え方が一本は右に二本目は左に、三本目は笠が大きく少し離れて、四本目と五本目が右と左とに程よいほど離れていた。その隔はなれ方に得えも言われぬ妙味があった。わたくしはその時漫然と飛石の打ち方を頭脳に思い浮べ、こんなふうに打てばいいのだと思うた。自然に生えた霊芝の離れ方にならうことも面白いと思うたのである。何となく岩段沓抜組方というのに似ているのも、偶然ではあるが古くから言いならされていることは争えないと思うたからである。
縁側或は座敷から下りる石はがっしりしたものを用いたい。そして打ち方は石の行荘三四連ずつ打ってもいいし、四二連でもかまわない。ただ短冊石だけは喰いちがいに二分の三強の食いちがいがよい。拍子木ともいうが恰も拍子木二本を併ならべ食いちがい三分の二程度に置いた見取りでゆけばいいのである。これらの飛石のまわりに苔が生えて居れば、何も下草は植えなくともよいものである。しかし処々に白い斑の入った姫熊笹を飛び飛びにかすれた墨絵のように植えるのは、程のよいものである。あるいは苔のままでもよい、苔は日苔といい打水をしないでも蒼々としているのをわたくしは一番に好んでいる。山にある苔である。暑い日には乾いたままで蒼く、へいぜいは水をやらないで折々の雨を待つか或は一週一回ぐらいの水でよい。がっしりした苔である。大庭などはこの苔の方がよい。水をやらない癖にして置けばそのまま苔になるのである。苔は肌のこまかいほどよいとしてあるが、山苔日苔の肌の荒いのは一層の荘重を感じさせるものである。総じて庭は石と苔との値が深ければよい、龍安寺の石庭は或る意味で枯淡な達人の心境をそっくり現わしたものと言ってよい。寂しさにすぐれた人間の心もつき詰めてゆくと、石庭の精神でなければならぬ。わたくしは重い曇天の下で、蹲まり睨み合い、穏かにも優しいかれらの姿を一瞥したとき、すぐ或る種類の人々の心を覗き見た感じをもった。
苔は山土の赭いのを敷けば一二年で生えるものであるが、石に苔の生えることは一二年では難しく、そういう浅はかな心は棄てなければならない。苔の生えるまで永い雨の年月を待つのは雅人のこころとしても、苔を植えるの徒はわが党ではない。飛石のへりに日苔のしがみついた形、色の食い込みは紙魚しみのある一帖の古本こほんのように懐しいものである。わたくしは石の上の蝸牛、いなご、せきれいの影を慕うものであるが、真寂しい曇天或は雨日の景をも恋うものである。拝石などと言って庭中清浄の境に置いて、これを拝む定石はあるそうであるが、わたくしはこんな古いことは廃めてもよいと思うている。池ぎわには垂鉤石というものがあったり、硯滴石、硯用石、筆竿石、筆架石などという名前があるが凝れば自らそう名づけて見たいであろう。その他鴛鴦石や虎渓石、陰陽石などというのも、石の形から考え出したものである。兼六園などはこれらの古い名前の石がところどころに置かれ、古きに則っている。陰陽石などは庭のどこかに昔は隠して入れたものであるそうであるが、詰らないことをしたものであるというより、何か縁起を取り入れたようで微笑まれるようである。
「庭を造る人」改造社
石
1927(昭和2)年
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