2014317(月)

不合格だった君へ


不合格ってことはだね、上のレベルにチャレンジしたってことなんだぜ!



人生賭けてそれを経験した人は少ない。
その分絶対成功すると思う。ホントだよ。



201422(日)

旅サラダ


旅サラダ

おまえらに旅サラダについて教えてやる。

まず、俺が言いたいことを先に言おう。「旅サラダ」という番組の最大の見どころのことだ。
最大の見どころ、それは、神田正輝のワイプ。これにつきる。

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なんとなくついている番組なのである。旅サラダは。
なんとなく土曜の朝8時にこの番組にチャンネルが合わされて
ぼくらは旅サラダを見ながら、「え?もう土曜日かぁ~ 一週間早えぇ~な~」と言うのである。

正式名称を教えてやる。「朝だ!生です旅サラダ」ってんだ。

旅サラダのスタートの10分は、隔週で勝俣州和のコーナーと三船美佳のコーナーがかわりばんこにある。勝俣のコーナーは「俺のひとっ風呂」というんだ。地方に行って、行き先が決まっているくせに、わざとらしく「チョメチョメができる風呂ってどこですか?」と地元の人に尋ねて、2件ほどお店に寄り道して、風呂に入るコーナーだ。

チョメチョメといえば、山城新伍だが、ダチョウ倶楽部の竜ちゃんのモノマネは最高だな。

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勝俣については、レポートから司会からひな壇から何でもこなせるタレントであるのだが、やはりレポートもうまい。ただし、勝俣は昔の「シャー!」というキャラでは、もはやない。彼は本当に優秀なツッコミで、レポートする相手がボケたじいさんとかなら、その矛盾をついていいツッコミをするのだ。ところが、相手がかなりまともな人なら、勝俣の味は出ない。ウド鈴木や高田純次の方がいい。

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三船美佳の「おでかけご飯」も、風呂か食事かの違いで大きな差はない。行き先が首都圏が多いような気はするけど。

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三船美佳の一番の役割は、「おいしそぉ~」、「たべたぁ~い」という顔をして、声を上げ、番組を盛り上げる係である。この係は実は大切で、彼女がいないことを想像すると、やはり寂しいのだ。林屋パー子に近い。ただ、表情は豊かなのだが、彼女の顔のバリエーションはきわめて少ない。主に以下の顔をしながら、うらやましいというコメントをするのだ。

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そして、向井亜紀が「次はラッシャーさんのコーナーです」と言うんだ。
そしたら、俺はテレビの前で「待ってました!」といって、手をたたくんだ。

この番組は生放送なんだけど、本当の生放送としての価値があるのは、ラッシャー板前のコーナーだけなんだ。もちろんスタジオも生だけど、編集されたVTRを見ているだけだから、最もリスキーなのは、このラッシャーのコーナーだけなんだ。

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この旅サラダという番組のメインは、次のゲストが日本国内を旅するコーナーなんだけど、神田のワイプ的には、ラッシャーのコーナーがメインとなる。だから、このコーナーを待っていたのだ。神田のワイプがとてもバリエーションが豊かになるんだ。もはや、神田おじいちゃんの顔芸コーナーと言っても過言ではないんだ。

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神田おじいちゃんは魚や海の幸が大好きなんだろう。ラッシャーが旬のごちそうを紹介して、箸をでつまんで、口に入れるまでの間に、神田じいちゃんの顔が微妙に変化して、二十面相となる。もはや、中国伝統の早替え仮面みたいだ。

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向井亜紀、勝俣、三船、どれも表情は豊かなメンバーだが、その表情の多様性、微妙な心情の表現という意味では、神田の足下にも及ばない。

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そして、ラッシャー。ラッシャーのコーナーは、日本全国を回って、地元のウマイ素材を地元の人に作ってもらうコーナーで、主に野外にテーブルを出してやるもんだから、宮川大輔の青空レストランのようだけど、それは逆でラッシャーのコーナーの方が遙かに歴史があり、15年間も続いているのに対し、宮川の番組は高々4,5年なのである。

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しかもラッシャーのコーナーは生放送。生だけに、段取りがものすごく出来ていて、ラッシャーの動き、テーブルや人の配置、地元の人の受け答え、すべてに関してかなり練習している感があるんだ。

なんといっても、ラッシャーの気合いが入っている。彼はおそらくこの旅サラダの生放送を中心にスケジュールを組んでいるのではないか?旅サラダ以外にテレビではあまり見かけないが、1週間の中のこの生中継の10-20分間に、彼のキャリアが遺憾なく発揮されている。

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 ラッシャーのコーナーは勝俣がとても良く笑う。わざとらしいぐらい。おそらく芸人ラッシャーを笑い声で助けているのだと思う。中継ではおそらくラッシャーはイヤホン1つでスタジオとの会話のやりとりをし、様子をうかがっているはずだから、わかりやすい大きな笑い声は間をとる上でも、やりやすいのだと思う。

ラッシャーはスタジオの会話が終わったいいタイミングで話し出さなくちゃいけないから、そのタイミングを取るときに「うん」という。この「うん」は、なんとなく見ていればスタジオへの返事に聞こえるのだが、良く見ればラッシャーの間の取り方なのだと分かる。この「うん」にラッシャーの必死さ、がんばりがみてとれるのだ。


まだまだ写真がたくさんあるのだ。今日はこの辺でやめておく。予定をかえて、次回も旅サラダ写真館。



2014126(日)

プチプランス(3)


「本当に大切なものは、目に見えない」

目にみえない大切なものを「さがすんだ」というメッセージが星の王子様だと思う。それがあったら、それがたとえ小さな一部でも、全体がすきになるし、それを連想させるものでさえ、美しく見える。

そして「星」、これは「目に見えない大切なもの」、そして「こころ」の象徴だと思う。

大きくなって星を覆ってしまう悪い存在として描かれているバオバブの木、これは「こころ」のマイナスの部分、嫌悪、嫉妬、恐怖、不安、怒り、憎しみだと思う。

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※このエントリーの挿絵、引用文は、サン=テクジュペリ作・絵 藤田尊潮訳(2005)『小さな王子』八坂書房より引用

これを放っておけば巨大な木となって、星(こころ)を覆い尽くしてしまう。

だから、小さいうちに摘み取っておかなくてはならないのだ。小さい時には簡単に摘み取ることができる。わすれよう、許そうと。

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でも、人は嫌悪、恐怖、怒りといったマイナスな感情を大事に育ててしまう性質も併せ持っているから、気をつけなくてはならない。

たいしたことでないのに、嫌ってしまっている人やものとか・・・ありません?
もうとうに昔のことなのに、その腹立たしさをわざわざ忘れないようにしようとしていたり・・・しません?

その反対に、星(こころ)にある美しい、すきだと思える象徴がバラの花。それは星にたった一輪でも、そのバラがあるから、その星が美しい。その星が目に見えないほど小さなものならば、夜空のすべての星が美しく思える。

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たった一人の人が住んでいるだけで、なにかいい想い出が一つあるだけで、その土地がすきになったり、なつかしかったり・・・ありません?


考えてみれば、人生の大きな目的って、自分のすきな対象をみつけることだと思う。意外とそれは、「自分と共感しあう人のこころ」だったりするわけ。それを探す・・・そんなメッセージがこの星の王子様なのではないかと思う。

なんか、嫌いな部分を探している自分がいるね。オレの心はバオバブの木が大きくなりかけているよ(本当のバオバブの木はとてもすばらしい木なんだけど)。

そして別れの直前、作者の腕の中で王子様が言う
「夜、星空をながめてごらんよ。ぼくの星はあんまり小さいものだから、どこにあるのかきみにはわからないだろう。そのほうがいいんだよ。ぼくの星は、きみにとってすべての星のなかの一つの星になる。そしたら、きみはすべての星をながめたくなるよ・・・すべての星がきみの友だちになるんだ。そうしたら、ぼくはきみにプレゼントすることができるよ・・・」
王子様はまた笑った。
「ああ!ぼうや、ぼうや、その笑い声がすきなんだよ!」

また中2病がぶりかえしてきた。
心のバラをみつけにいこう・・・なんてなゲボハッハッハッハ。次回「旅サラダ」



2014122(水)

プチプランス(2)


プチプランス(2)

まず、僕の読み方の前提としては、この物語は作者サン=テクジュペリの創作だとは思えなくて、これは彼の経験なのだということ。それには全く根拠がないのだけど、そのように感じてしまう(単なる直感)。たしかに、「星の王子様」は「わたし=作者」が6年前に経験したことだという設定なので、そのように思えてしまうんだけど、本当にそんな気がする。少なくとも王子様とわたしのやりとりについては。もちろん、それは彼の夢かもしれない、もしかすると、砂漠に生きる原住民の子供のことかもしれない。だけど、創作ではなくて、経験なんだと、感じる。

「本当に大切なものは目に見えない」・・・・・・
この物語の最も重要なメッセージは、地球に降り立った王子様が出会ったキツネから教わったものだ。

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それまで自分の星のバラは唯一の愛しい存在だった。だけど、地球にきたらたくさんのバラがさきほこっているではないか。自分の星の火山より遙かに高い山が地球にあるではないか。自分が大切に思っていたものがちっぽけに見えて、落ち込んでいる王子様にキツネは言う。

「(再度)バラの花を見に行ってごらん。おまえのバラがこの世でたった一つのバラだってことがわかるだろう。それから、さよならをいいに俺のところへ戻ってきてくれ。そしたら俺はおまえに秘密のプレゼントをするよ」
※エントリー内の引用文および画像は、サンテクジュペリ作・絵 藤田尊潮訳(2005)『小さな王子』八坂書房

そして自分の星のバラがただのバラではなく、自分にとってかけがえのない唯一の存在であることに気づいた王子様は、別れを言いにキツネのところに戻ってくる。そしてそのプレゼントをもらう。

プレゼントとはキツネからのメッセージだった。

「俺の秘密ってのはこういうことさ。とてもかんたんなことなんだ。心でみなくちゃものごとはよく見えないってこと。一番大切なものは目に見えないのさ」

キツネは王子様に言う。
「おまえがバラのために使った時間が、おまえのバラを大切なものにしているのさ」
「人間はこの真実を忘れている。おまえはおまえのバラに責任があるのだ」

ここで目に見えない大切なものには、何かのために使った時間、そこから芽生える気持ち(責任、大切)・・・・が含まれることがわかる。


星に咲いたたった1本のバラの花。
この花の美しさに王子様は感動して、あれやこれや愛情を注いでやるのだけど、
花の方がどこかのお嬢様のように、あれしろこれしろと要求してくる。
しまいには、このバラと王子様はうまくいかなくなり、王子様は渡り鳥とともに
小さな星を去る。

だけど、王子様は地球にきて気づく。バラの憎まれ口は大切なことではなかったと。
大切なことは、誰も邪魔することなく、美しい姿をみせてくれ、そして星をいい香りでみたしてくれたという、バラの行いであると。


話の中では、作者の飛行機がアフリカのサハラ砂漠に不時着している状態にある。作者はなれない飛行機の修理を、1週間分の水しかないのに一人でしなくてはならなかった。そんな時に、王子様と出会った。

ところが水がつきた。作者はもう王子様との会話を楽しむ余裕もない。

何のあてもなく、王子様と作者は砂漠の中で水を探す。そして奇跡的に井戸を見つけるのだ。

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その先をちょっと引用すると、

ゆっくりと、わたしはおけを井戸のふちまで引き上げ、たおれないように、そこにしっかりとおいた。わたしの耳の中では、まだ滑車の歌(きしむ音)がひびいていた。そしてゆれる水の中には、太陽がふるえているのが見えた。
「ぼく、その水のみたいな。のませて」と、王子様は言った。
そのときわたしにはわかったんだ、王子様のさがしていたものが。

王子様は生理的に水は不要だと思われる。だけど水がほしいと。
作者がわかった、王子様のさがしていたものとは、「砂漠の美しさの源」要は砂漠が好きだという心の中心だと思う。

井戸を探している時の王子様の台詞
「砂漠ってきれいだな」「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」「星が美しいのは、目にみえない花のせいさ」
一見、何もない絶望的な砂漠も美しさ(友達を救う水)を秘めている。目にみえないぐらい小さな星も美しさ(大好きなバラの花)を秘めている。でもそれは目にみえない。それを探す=心の目で見る。

それと、作者のために使った時間、そこから芽生える責任。砂漠の美しさと、作者を好きだという気持ちの象徴が、井戸の水で、王子様が求めていたものは、そういう目にはみえないけど、たしかにあるものだと思う。


一番大切なものって、一言でいってやろうと、思ってたけれど、むずかしい。
それは、直感的に美しいと感じたり、好きだと感じたその理由だったり、お客さんや家族の望みだったり、それを探し当てたときの心だったり、なにげない行為に見える心の美しさであったり・・・・と思う。


だけど、いつもさがしているような心持ちでいたいとおもうわけだ。心の目で。

つづく



2014119(日)

プチプランス(1)


去年のいつだったか、忘れてしまったけれど。ふと、昔の曲を思い出して、とても懐かしく感じて、その曲がまたとてもすばらしく感じた。

おそらく、ほとんどの人はそんなことは経験済みなのであるが、今は本当にいい時代で、思い出せる歌詞なり、歌手なり、映像なりといった、そんな断片的な情報でちょいとネット検索してみると、あの懐かしかった曲に出会えたりするんだ。

予想どおりyoutubeにアニメ星の王子様のオープニング曲「星の王子様 プチプランス」が画像付きであって、何度も聞いて感慨にふけった。


昔、なつかしのアニメの特番で、山瀬まみがこの曲が好きだったと言っていた。
小学生の頃聞いていた曲、その当時はそれほど意識していなくても、その良さが大人になってから強くなって感じられることって、やっぱりあるんだ。

僕は歌詞がうろ覚えだったから、ここに歌詞をかきとめよう。ついでに僕のインチキコピーコードも書いておくから、ギターをつま弾きながら、この名曲を歌ってみてほしい。
「星の王子様 プチプランス」
作詞 阿久悠
作曲 三木たかし
歌 鈴木賢三郎

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僕はフランス語はしらないけど、プチ(小さな)プランスってのは、プリンスのフランス読みらしい。
このプチプランスは、この物語の原作「Le Petit Prince」から来ている。

阿久悠の詩は、原作に基づいて書いている。
詩だけ読んでも、なんだかわからないけど、曲に乗せるとたちまち哀愁を帯びたすてきな詩になるね。
あれがあれが僕の星だよ、赤い赤い夕日みつめていたよ プチプランス ルルルル

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日本語訳のタイトル「星の王子様」(内藤濯訳 岩波書店)があまりに有名になってしまって、アニメのタイトルも「星の王子様」。原作タイトルプチプランスの直訳は「小さな王子様」。作者はサン=テクジュペリ(フランス)。

このアニソンの冒頭のナレーション

この物語を
世界中の子供達に
また自分が子供だった頃を
忘れがちな大人達に
そして
うわべだけでなく
物事の本当の美しさを
見つめる勇気を持った
すべての人々に
心からの友情をこめて
贈ります

サン=テクジュペリ

バックで流れるストリングスとともに、語られるこのナレーションは本当に印象的で、映像と音楽と詩的な言葉というのは、本当にすばらしく相性がいいものだと改めて思うわけだ。

このナレーションは原作「星の王子様」のプロローグかと思えば、そうではない。
星の王子様のプロローグがこんな感じ

レオン・ウェルト(テクジュペリの親友)へ

私はこの本をあるおとなの人に捧げた。
そのことをわたしは子供におわびしたいんだ
--中略---
(子供の心を持った親友が今苦しんでいる)
私はその大人の人が子供だった頃に、この本をささげたい。
どんな大人でもはじめはみな子供だったんだ。
(そのことを覚えている人は本当にすくないけれど)
だから、私はこういうふうに訂正する。

子供だったころのレオン・ウェルトへ

前半は原作のプロローグと同じ主旨のことがナレーションで流れるんだけど、
後半の「うわべだけでなく物事の本当の美しさを見つめる勇気を持ったすべての人々に贈る」
という部分が原作のプロローグにはない。

この「本当の美しさを見つめる勇気」というのが、何といっても考えさせられるではないか。

このアニメは1978年に放送が開始されている。「星の王子様」が初めてアメリカで出版されたのが1943年。作者サンテクジュペリの没が1944年。このアニメのナレーションのためにサンテクジュペリが何かを書き残すことはあり得ない。出版後わずか1年でサンテクジュペリが死んでしまうわけだけど、その間にこのナレーションの文章をどこかに残したのだろうか?
それとも、このアニメ制作者によるものなのだろうか?誰か知ってる人いたら教えてください。

でも普通に考えてわかることは、原作「星の王子様」の主旨を、この「うわべだけでなく本当の美しさを見つめる勇気」ということばで伝えているということだ。

原作「星の王子様」に出てくる、一番印象的で示唆に富む、一番重要な言葉。

「本当に大切なものは目に見えない」


「うわべだけでなく本当の美しさを見つめる勇気」とは、この「目に見えない大切なもの」を指していると思われる、というか、そうに違いないんだよね。

「本当に大切なものは、目に見えない」という表現。本当にイメージが広がるし、とても大きな言葉のような気がする。

では前後を入れ替えて「目に見えない本当に大切なものとは何か?」という問いにしてしまうと、なんともイメージが小さくなってしまうような気がするんだけど、

「本当に大切なものは目に見えない」それは「こころ」

だと思う。もちろんこの示唆に富んだ言葉には、いろいろな解釈があると思うし、実際そのような本がたくさん出版されているんだけど。それは「愛」、それは「時間」・・・原作を読んでも、いろいろ考えさせられるんだよね。

そして、王子様の星、これも同じ「こころ」を指しているんだとおもうんだよね。

ちょっと、アニメから離れて次は原作の話を書こうと思うんだけど・・・つづく



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むし虫堂
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