2013年5月19日(日)
5月17日 洲本から高松、そして別子銅山へ
食べある紀行×326

2日間、ブログをお休みした食いしん坊主です。あまりにも充実した日々を送っていたため、ブログにまで手が回らなかったのです。
洲本から海沿いの道路をたどって南下し、大鳴門橋を渡って四国に入りました。

高松の友人宅には、早々と9時30分頃に着いてしまいました。
ここからは、もっぱら友人に運転してもらったので、チョー楽チンでした。
さっそく、おススメのうどん屋さんに行き釜あげうどんをいただくことに。さすが本場だけにレベルの高い一品でした。善通寺市にある長田in香の香さんです。


食後、直ちに新居浜の別子銅山に向かいます。廃墟のような建物群については、写真をアップした時にご説明したいと思います。
東平(とうなる)は、標高750mの山中にあり、大正5年から昭和5年まで別子銅山の採鉱本部が置かれていました。この地域には、銅山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には3800人もの銅山関係者とその家族が住み、昭和43年の東平坑休止によって無人の地となるまで、山の町として賑わっていたそうです。
「東洋のマチュピチュ」と言われている遺構群です。(メイン画像も)




とんでもない山奥に、とんでもない規模の施設があったものです。知りませんでした。
ここでも、藤の花が満開でした。

本日は、ここまでとします。
洲本から海沿いの道路をたどって南下し、大鳴門橋を渡って四国に入りました。

高松の友人宅には、早々と9時30分頃に着いてしまいました。
ここからは、もっぱら友人に運転してもらったので、チョー楽チンでした。
さっそく、おススメのうどん屋さんに行き釜あげうどんをいただくことに。さすが本場だけにレベルの高い一品でした。善通寺市にある長田in香の香さんです。


食後、直ちに新居浜の別子銅山に向かいます。廃墟のような建物群については、写真をアップした時にご説明したいと思います。
東平(とうなる)は、標高750mの山中にあり、大正5年から昭和5年まで別子銅山の採鉱本部が置かれていました。この地域には、銅山関連施設や生活関連施設が整備され、最盛期には3800人もの銅山関係者とその家族が住み、昭和43年の東平坑休止によって無人の地となるまで、山の町として賑わっていたそうです。
「東洋のマチュピチュ」と言われている遺構群です。(メイン画像も)




とんでもない山奥に、とんでもない規模の施設があったものです。知りませんでした。
ここでも、藤の花が満開でした。

本日は、ここまでとします。
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